

Drama
Review
review
□ デモと身体
ーPlaTEdgE『aw-thentic declaration』
竹田真理
□ 新たな舞踊言語の開拓を
ーきたまり/KIKIKIKIKIKI マーラー交響曲第二番『復活』
竹田真理
□ ダンスで辿る女性芸能者の系譜
ー余越保子『shuffleyamamba』
竹田真理
□ 「ケソン工業団地」から考える
ーグループ展『ケソン工業団地』(KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭2019)
坂本秀夫
□ わからないことしか書けないと開き直って
ーakakilike『明日で全部が終わるから今までにした最悪なことの話をしようランド』
上念省三
□ テクストをめぐる不自由
ー『神の子どもたちはみな踊る after the quake』
藤城孝輔
□ 令和元年の伊藤野枝
ー『美しきものの伝説』から『ブルーストッキングの女たち』へ
瀧尻浩士
□ 野外劇場の余白の風
ー野生『能』2019:火魔我蹉鬼(Kama-gasaki)、洲波羅(Suhara)、富久破裸(Fukuhara)
岡田登貴
cross review mimacul『さよならあかるい尾骶骨』1
《からだ》が《わたし》にもたらす被害
ネツヤマ
撮影:小田嶋裕太

mimacul「さよならあかるい尾骶骨」
(KYOTO EXPERIMENT 2019 フリンジ公演)
2019年10月4日~10月6日
於:Space bubu
【作】小高知子
【出演】 堀井和也 立蔵葉子 古川友紀 増田美佳
【宣伝美術】 嵯峨実果子 【宣伝写真】 山羊昇

・はじめに
本稿は、mimaculによる「さよならあかるい尾骶骨」に関する、そのストーリー・テーマ・演出方法などへの解説・感想だ。
本作は3日間で全5公演、各回の定員が25名ほどという小さなスケールで催された100人程度しか観ていない演劇だ。だからこそ、本稿を通して、本作の概要を、未見の多くの方々に伝えていきたい。
執筆にあたってmimacul主宰の増田美佳氏にメールにて取材した(2019年10月)。上演期間中にmimaculのサイトで公開された小高知子氏の上演台本も引用しつつ、考察していく。
公演のコピーには「あらかじめ体をたずさえた私たちのどうしようもなさ」とある。
1.主催団体「mimacul (ミマカル)」に関して
本公演の起点となったのは、ダンサー・文筆家の増田美佳氏が主催したイベント『mimacul 文体と歩く半年間のワークショップ』(2018年度京都芸術センターCo-program カテゴリーC:共同実験)だ。
同イベントは18年8~12月の期間中、参加者らのディスカッションをベースに、リレー小説(参加者どうしで続きを執筆していく形式の小説)の執筆・俳句を詠む・架空の回想録を書く・写真による身辺雑記・ストレッチなどを全10回にわたって行うものだった。各回のワークの方法はバラバラながら、身体・私性・文体といったキーワードが一貫して意識され、とりわけ、第5回に哲学者・批評家の千葉雅也氏(立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授)を講師に招いて行われた公開講義の演題『書くことと体』は、イベント全体に通底する主題だったと言える。
参加者は関西圏の俳優、ダンサー、劇作家らを中心に約10名。関西の若手演劇人らが集まり、前述のテーマについて複数の方法から手探りしていったわけだ。
同イベントは、19年2月に参加者の文章をおさめた小冊子を発行。その後は増田氏主宰の、固定メンバーをもたない非定型のユニットとなった。つまり、mimaculは劇団ではない。
そして、今作は作・演出・出演・会場オーナーまで、mimaculワークショップの参加者により行われた。戯作者・演出家が中心的・支配的な役割を果たす演劇のかたちとは異なり、「言葉と身体」をめぐる半年間の共同実験そのものを下地にもつ作品だという点にも注意。
2.設定とあらすじ
脚本は、小高知子氏による第7回近松賞最終候補作。作家の戯曲は今回が初上演となる。
登場人物は、30歳代の「男」、男の愛人の「女」、男の「妻」、男の「母」の4人。
「男」が自分にまつわる3人の女性とかわるがわる相対する場面が続く会話劇だ。
設定とあらすじは、以下の通り。
旅館の一室。「男」は、15年ほど関係を続けた「女」と別れるため、最後の旅行に来ている。夜、「女」のもとに、幼なじみの男性が事故死したとの報せが入る。「男」は葬儀に向かうよう急かすが、「女」は選択を先延ばすように、セックスをねだる。「男」に抱かれる「女」は、「妻」に変化していく。
夫婦の住むマンションの部屋。子を寝かしつけた深夜、セックスを終えた「男」と「妻」は、隣室に住む老女が、夫婦を児童虐待で通報したことを話す。虐待は無実だが、「妻」は子に愛憎を抱いており、母親としての自分に疲弊している。「男」は隣人との折衝や、育児への協力を提案するが拒絶される。
再び旅館。「男」は「妻」に起きた変化と、我が子を受け入れられない困惑を「女」に話す。「女」は「男」との間に産まれていたかも知れない子への未練を話し、心中を持ちかけ、劇薬を混ぜたお茶を差し出す。
認知症を患い、介護施設への入所を明朝に控える「母」の寝室。「母」がお茶を「男」に差し出している。夜、「母」は訪れた「男」を息子の成長した姿だと認識できておらず、育児をしていた頃の記憶に戻っている。「男」が幼少期、空想に耽って独り言を呟いていたことを愛おしそうに繰り返し話すが、「男」は当時を覚えていない。
再び旅館。「男」と「女」はキスをする。口移しで劇薬を服んだのかも知れない。どこからか子供の泣き声が聞こえてくる。その声は「女」にしか聞こえない。……
上記のように、痴情・育児・介護といった、タフなテーマに取り組む。「男」は女性たちに戸惑い、時には解決策を提案し、時には話を逸らそうとするが、逃げ場はなく、(おそらく)死んでしまう……キツい話だ。
冒頭のシーンは「男」と「女」が不倫旅行に来ている宿。「女」が、電話で幼馴染みの男性の訃報を受ける。
(女、電話を切り、)
女 行かな。
男 え、
女 行かないと。
男 今から?
女 ううん、明日でいいって。
男 ああ、
女 うん。
男 あかんの、
女 え、
男 行かな。
女 うん、行かなあかん、え、
男 え。
女 どうしよう。
男 どうしよって、
女 おにいちゃん、
男 お前兄貴なんかおった。
女 ちがう、近所の。
男 ああ。
女 昔たまに遊んでもらったりしてん。
男 亡くなったん。
女 うん、さっき。事故やって。
(1場より引用)
引用の通り、台詞は相づちや沈黙まで書き込まれ、台本自体が独特の間とリズムを持っている。本作は、この文体を崩さないまま、正確に上演したものだ。ストーリーの改変や台詞の変更もほとんどなく、一見して、オーソドックスな台詞劇の形式をとっているように見える。
撮影:小田嶋裕太

3.主題と演出
しかし、ここで、私はひとつ疑問を持った。出演者は前述のようにmimaculワークショップの参加者であり、ダンスなど非言語表現の表現者が多い。特に「妻」役の古川友紀氏(ダンサー)は、今作が初めての台詞劇の出演。身体表現プロパーが上演を試みる際には、しばしば台本上の台詞を身振りで置換したり、演技と踊りが混在するなどの演出がなされることがある。にもかかわらず、ダンサーらを中心に構成され、俳句を詠んだり、リレー小説を書いて活動していた劇団ではないグループが、なぜ典型的な台詞劇を試みたのか。
増田氏は「身体を創出する興味より、言葉を聞いてほしいというのが先んじていた。言葉と体の関わりに、大きな齟齬や抽象性を必要と思わなかった」と答えた。
では、「言葉」と対になるようにmimacul が取り組んできた「身体」への興味は、作中のどこに反映されたのか。この点を本稿の目的として、「戯曲」「演技」「舞台」の3点から見ていく。
まず「戯曲」。本作では、もろに「身体」が主題になる。
「男」が相対する女性は前述のように3人。それぞれ「男」に対して「女」はセックスを、「妻」は出産を、「母」は自身を産み育てたことをもとに関係が結ばれていることは明らかだが、本作の特徴はセックス、出産、被・出産「以外の関係性」を書いていないことだ。
例えば、本作は「母」を主要な登場人物としていながら、「父」が登場しない。といって、母子家庭などの父のいない環境を描いているわけでもない。
居るのに出てこない「父」の扱いを示すのが、「男」が自分の子にいまひとつ愛情を持てない、と「女」に打ち明けるシーン。「女」はあっさりとこう答える。
女 てかさ、そもそも父性と母性には差があるよ。絶対。
男 差。
女 父性を 1とすると、母性はそれの73億6200万倍くらい。
男 そんなに、
女 だから父性なんてあってないようなもんやし、気にせんでいいんちがう。
男 お前、
女 なに。
男 世界中の父親に謝れよ。
女 なんでよ。
男 男性蔑視や。
女 仕方ないやん。事実やん。
(3場より引用)
これが、本作で1度だけ出てくる「父親」像だ。
父性と母性には73億倍の差があるという、このうえなく直接的な評価。しかし、父親そのものを否定してはいない点に注意。否定されているのは「父性と母性という対立概念」だ。 「父親の不在」や「父権性の崩壊」なんて話ではなく、「父」は単に問題にされない。……かわいそうだ。
一方、「母性」の扱いはどうか。象徴的なのは以下のやりとり。
妻 あたしにもあんねん、母性。
男 そりゃ母親やねんから、正真正銘。
妻 可愛いとは思うねん、あの子のこと。
男 うん。
妻 可愛いし、愛おしい。
男 分かってるよ。
妻 愛おしい以外の感情が消滅するくらい、愛おしい。
男 どういうこと、
妻 すべてが愛おしいに侵食されて、どの感情も愛おしいに集約されんねん。
男 なんやねん、それ。
妻 そのくらい、濃いよ。
男 濃い?
妻 あたしの愛は。
しばし間。
男 深い、じゃなくて?
妻 え。
男 愛は濃いん?深いじゃなくて。
妻 そう、あたしの愛は深くない。深くないけど、濃い。
(2場より引用)
……キツい。「深くはない、濃い愛」という表現は、小高氏の複数の戯曲に登場するキーワードでもある。ここで「妻」は、母性をいつくしみややさしさといった一般的な意味ではなく、他の感情を侵食し、我が子に集中させる力と捉えている。つまり、母親とは子を愛すること以外は許されない者とされる。この苦しみはいわゆる「育児疲れ」とも違う。「濃い愛」という毒に喘いでいるかのようだ。
さらに、劇中で女性どうしは一切、絡まない。常に「男」と3人の女の誰かがサシで会話する。本作の設定で「女と妻」が相対すれば三角関係が描かれ、「妻と母」が相対すれば嫁姑問題が描かれるだろうが、そうした場面は、1度もない。私たちが常に生活のなかで問題とし、本作のような設定のドラマについ期待してしまう「不倫」や「家族」の諸相を描くつもりはないわけだ。
加えて、登場人物たちの「仕事」「友人関係」についても、まったく触れられない。「すべての男は消耗品である」と言い切ったのは村上龍だったが、本作の「男」は、作中で「仕事」「社会性」への言及がないために労働者として位置づけられず、消耗品としての存在価値も評価されない。私は観劇中、男だって頑張ってるのに……と落ち込んだ。「仕方ないやん、事実やん」という、女たちからの声が聞こえてきそうだが。
また、本作は現代劇でありながら(冒頭で「女」が電話を切ったあとは)「テレビ」「電話」「スマートフォン」といった道具が登場しない。そのため関係性は一対一の対面で閉じられ、コミュニケーションは会話と、セックスだけだ。
このように、本作は、社会的存在としての人間を徹底して描かず、生理のみを描こうとする。そして、「母性は手に負えず、父性は無いも同然」だ。この男女のアンバランスこそ、公演コピーにある「あらかじめ体をたずさえた私たちのどうしようもなさ」の意味と考える。そして生まれ持った性と身体からは現代の医学では、まだ逃れることはできない。
男性閣僚がイクメン宣言し、男性社員の育休が奨励される過渡期の時代に、20歳代の女性の劇作家がこうした立場を表明しているとは、刺激的だ。
※ちなみに、小高氏は「身体」という主題のみにこだわって戯曲を書いている作家ではない。本稿では詳述しないが、『光の中で目をこらす』(第24回劇作家協会新人賞最終候補作)では、まったく別の角度から、群像劇のスタイルで人間を取り扱っている。だからこそ本作に固有のテーマである点に注意。
次に「演技」。
本作の演技は、異様に静かだ。登場人物は不倫相手との別れを告げる場面であっても大声をあげることはなく淡々としており、嫉妬に狂って叫びだしたりはしない。セックスシーンは「男」が女性の上に乗っているだけで、欲情やフェティシズムとは無縁の営みとして表現される。戯曲で取り扱われるシビアで切迫感のあるテーマと、作中の演技は対照的に映った。
私たちの生活の中で、別れ話やセックスは強い意味を持つ行為だ。本作の演技はその強さを再現することを明らかに避けている。それは同時に、意味の弱い行為に観客の注意を向かわせることにもなる。実際に本作では登場人物の呼吸・姿勢を変える・距離をとる(詰める)といった仕草が、ことさら目に付いた。
それどころではない。増田氏は演出にあたって「身振りとしてのノイズや私性(痒かったら掻く)は積極的に残し、半熟にしたかった」と語る。……「痒かったら掻く」というのがすごい。mimaculというグループは、不倫と心中と育児と認知症の母の介護をモチーフにした戯曲を演出するにあたって、俳優が上演中に身体が痒くなったときどうするかを問題にしてまで、「戯曲」と「演技者の身体感覚」の関係性を考えている。こうした演技プランのもとでは、「セックス」と「体を掻く」は同じ重みで取り扱われ、行為の意味の起伏がならされてしまう。
その結果、舞台上には人間の営みを遠くから覗き見る静けさと同時に、物語の渦中にありながらどこか放り出されたように身体がある状態が起こる。そして、この環境に耐えるためには「行為の意味に拮抗しうる身体」を持たなくてはならず、それは俳優の職能とは本来的に異なるスキルだろう。その点において、本作を身体表現プロパーたちが演じる意味があったとも考えられる。
最後に「舞台」。
会場はmimaculワークショップの参加者、大谷悠氏がオーナーの「Space bubu」。設備の揃った劇場というよりは、即興ダンス公演、ワークショップ、ヨガ教室などを行う多目的スペースで、演劇の上演は今回が初めてだ。
舞台はかなり狭い。四畳半の「部屋」で、奥に窓がひとつ。上手に部屋の外へ続く襖、下手に押入れがある。照明は天井から下がった電灯ひとつのみ。そこが「旅館の一室」「夫婦の部屋」「母の寝室」の3箇所に見立てられる。客席は舞台よりやや広く、観客は物語が進行する小さな部屋を覗きこむような構造になっている。
全5場のなかで3つの部屋が繰り返されていくわけだが、その場面転換は、本作の演出のなかでも、mimaculの身体への立場を表すという意味では、とりわけ特徴的なものだ。「男」は常に舞台上にいて、「女」「妻」「母」が襖なり押入れに待機しており、舞台上の女性と交代することによって場が変わっていく。暗転も音楽の挿入もなく、ただ出ハケで、入れ替わるだけだ。
この場転の選択は、もちろん舞台設備の少ない会場の都合によるものでもあったが、たとえば、漫才のかけあいの最中に寸劇が挟まれるときに見られるような、唐突で形式的な切り替わりではないことを強調しておきたい。「登場人物であることをやめながら遠ざかる(あるいは、登場人物になりながら近づいてくる)」としかいいようのない状態で、ヌルッとした感じで次の場の登場人物が入場し、今の場の人物と交代する。
このときの「素」とも「演技者」とも言えないありようは、いわゆる俳優の佇まいとは明らかに違うものに見えた。こうした身体を露出させるところに、mimaculという劇団とは異なる非定型のユニットの思想の一端が示されている。本作の「場転」は、またの上演の機会を待ち、じかに見て欲しいところだ。
本作の演出は、戯曲の取り扱うタフなテーマをそのまま再現して皮膚感覚に訴えるより、演技者の身振りや呼吸を注意深く取り出し、演技に還元することで、結果的に戯曲が持つ身体性が静かに染み出すような方法を選んだといえるのではないだろうか。
4.所感
本作は男性の無力・無理解を指弾し、女性上位をうたうものでは決してない。本作のテーマは男女の差異や優劣ではなく、男女ともにどうしようもないということだ。
「どうしようもなさ」を「不自由」と言い換えるなら、本作の登場人物は男女とも例外なく「からだがあるために不自由な人間」だ。赤ん坊から成長して自意識を備え、男性と女性という性にわかれたことで、いやおうなく生じる空虚さと行き詰まり。
つまりは本作のテーマを「《からだ》が《わたし》にもたらす被害」こう言い換えることもできるのではないだろうか?
では、身体が与える被害に対して、私たちはなす術がないのだろうか。本作は以下のふたつの方法を表明する。
ひとつは「自死」だ。
本作は、男女が「男」と「女」が心中を企図する(ようにも見える)場面で終わる。江戸時代中期、心中ものは、遊郭文化などを背景とした身分違いの恋を遂げるための「差別の超克」のドラマとして登場したが、本作は死を社会的身分差ではなく、体から逃れる手段と定義した点で、珍しい心中ものになっている。
もうひとつは「虚構」。
認知症の「母」は、「男」が幼かったころの様子を繰り返し話す。特に小学生の頃の「男」がつぶやいていた、不思議な詩や作り話を。当の「男」はその当時をすっかり忘れてしまっているが、「母」がその内容を暗唱するシーンがある。
母 失われたからだの機能について、
男 なに、
母 君は考えたことがあるか。
母、くつくつと笑う。
男 どうしたん。
母 だって、君、やって。小学生が、君、やで。
男 ああ、
母 あーおかし。ボキャブラリーにな、
男 うん、
母 偏りがあるわな、ひとりっ子やから。
男 それ関係あるかな。
母 僕らがなくしてしまった器官について、
男 うん、
母 君は考えたことがあるか。ヒトはその進化の過程で、なくしていったからだの機能が実に百個以上もあるという。たとえば虫垂。たとえば瞬膜。横口蓋ひだ。大きな耳。副乳。立毛筋。失うことが進化だとすれば、僕たちはこれからもどんどん失うだろう。どんどん失って、いつかすぽんと消えてしまう。失っていく、というのはどういう感覚なんだろう。失いつつあるそのさなか、ひとは何を思うのだろう。忘れることと失うことは一体どのくらいちがうのだろう。僕たちが、いま、患って、苦しんで、もて余している器官のうち、いくつかは数千年後にはすでに失われているかもしれない。その儚さと生命のしたたかさについて、君は考えたことがあるか。僕は毎晩僕の尾骶骨に問いかける。脊椎のいちばん下、ちいさなほねが寄り添うように集まった、その名残りの部分に問いかける。
母、立ち上がって窓の方へ行き、
母 まだあるかーっ。あんたまだ、そこで、そうしてるんかーっ。
間。
男 近所迷惑やな。
(4場より引用)
これは、本作で1箇所だけある、長台詞だ。ひそやかな空気をもつ作中で数少ない、祝祭的なシーンでもある。そして何より重要なのは、この独り言が空想で、虚構だということだ。
認知症を患った人は、短期記憶ができなくなり、自身がもっとも幸せな出来事の記憶を反芻すると言われる。本作の「母」は、自身の思春期でも新婚期でも妊娠期でもなく、わが子が虚構をつくりはじめたころに戻っているわけだ。これは、人間は虚構によって、いっとき身体の不自由から救われると示唆していると言えないだろうか。
mimaculがワークショップで模索してきた「書くこと」の価値もまた、その場限りの虚構を持ち寄ることにあっただろう。
そして、「男」は自身がつくりだしてきたはずの空想をまったく覚えていない。飛躍したことを何も言わず、常識に沿ってしか行動できない人物として描かれる。とすると、この作品は、虚構をつくることができなくなった人間たちが陥る苦しみについて書かれていると見ることもできる。
この点もまた、すぐれて現代的な問いかけだと思う。
・おわりに
本作は決して潤沢な資金と設備によって整えられた作品ではないが、狭小な会場をあえて箱のようにしつらえ、出演者それぞれが自身の身体感覚をつぶさに内省しながら巧妙に演出を仕掛けていった佳作だ。登場人物にあからさまな救いを用意していない点も良い。
男性と女性はからだを通じて関わっている。労働・結婚・家庭といった制度ではなく、あくまで生理的に関わらざるをえない、との立場を大きく打ち出しているのが、この演劇の特徴といえる。だから、本作はジェンダーの問題に関わろうとしているのでもない。性差も制度だからだ。
こうした「制度の外にある身体」に対して、身体を無限に拡張するテクノロジーに囲まれ、「多様性の礼賛」というわけのわからない新しい圧力の時代に生きる私たちは、改めて熟考する必要があるはずだ。
こうした作品が生まれてくるのは、東京よりも人口が少なく、環境の代謝がゆるやかな関西の演劇シーンならではという気もする。だからこそ、関西を出て、広く観客の目に触れる機会を望みたい。
■ネツヤマ
1983年生まれ。京都造形芸術大学卒業。現在、東京在勤。経済誌記者。
※ 本文中の傍点を下線に変更しています(編集部)。
撮影:小田嶋裕太

cross review mimacul『さよならあかるい尾骶骨』2
無限のあわいへ
三田村啓示
misogyny 女性や女らしさに対する嫌悪や蔑視の事である。 女性嫌悪、女性蔑視
misandry 男性への嫌悪あるいは憎悪。 男性嫌悪・男性憎悪などともいう。男性への性差別、中傷、暴力、性的対象化など
分断の時代などという言い回しが人口に膾炙するようになってそこそこ久しい中、とうとうここまで来たかと感じさせられたのはウォール街における#MeToo以降時代の新ルールについて触れられたこの記事(https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2018-12-03/PJ5GIH6JTSEL01)やこの記事(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/58951)、またこういったインセルについての記事(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56258)であった。若者の恋愛離れ結婚離れや少子化云々の行き着く先がこれだった、とまでは言わないが、ハラスメントリスクの回避とミソジニー・ミサンドリーが加速した果ては男女の分断だったという話…である。そしてまた近年、長年の活動の結果LGBTQという概念の一般的な認知度が高まってきた中、最大限ポリティカル・コレクトネスへ目配せした上で男と女のドラマを描くということは中々に一筋縄ではいかないことなのかもしれず、そしてそれを知ってか知らずか、ダンサー・俳優・文筆家など多岐に渡る活動を展開する増田美佳が主宰する『mimacul(ミマカル)』による「さよならあかるい尾骶骨」(作・小高知子、第7回近松賞最終候補)は、四畳半舞台で展開されるアナクロな男と女の愛憎ドラマのフォーマットを一見借りているように見えながらも、不思議なほどに乾いたダイアローグの感触が印象的であり、どこか新しい着地点を目指しているように感じられる。
登場人物は4人、男とその妻、男と15年近くも不倫関係を続けている(らしい)女、そして男の母。複数人で会話するようなシークエンスは無く、全ては男と、他の3人の内の誰か1人との会話で進行していく。照明や音響効果はほぼ無く、かつて日本舞踊の稽古場だったらしいspace bubuという非常に独特な空間を最大限に生かし、ある時は男と女が逢瀬を重ねる旅館の一室、ある時は男と妻の家、ある時は母の家…という風に、常にその一室に居続ける男と、入れ替わりに入ってくる他の3人の女たちのダイアローグだけによって、劇の場は変化しそこに立ち現れてくる。そこで彼らがとりとめもなく話すのは主に、どうしようもなく男が男であることと女が女であること、或いはそのあわいについて、である。不倫相手の女は「小学生まで女の子だった」という亡くなった「近所のお兄ちゃん」を回想する。また妻との間に幼い子がいる男にとって、「赤ん坊」とは「いきものが進化して、ヒトになって、男と女にわかれる」前の、何か「別のいきもの」であり、近隣から苦情が来るレベルで泣き止まないその幼子は、男の妻にとっては男(夫)そのもののようでありながらも、男と妻の子ではなくわたしがひねりだしたわたしの子なのだ、と言う。一方女は男との最後の別れ際に青酸カリが入っている(らしい)湯呑みを渡そうとするが、場面が変わると男の目の前にいるのは男の母だ。施設に入るらしい母にとって、目の前の男は息子ではあるのだが施設の職員のような他人にも見えている。母は(恐らく)息子の幼いころの言葉として、ヒトが進化の過程で無くし失われた身体の機能のこと―例えばヒトがヒトに進化する前にもっていた尻尾の名残としての尾骶骨のこと、そして今私たちが患い、苦しみ、持て余している器官のうち、そのいくつかは尾骶骨のように数千年後には消えているかもしれないのだ、と言う。
現状として、今私たちは女であること或いは男であることを主体的に選び、生まれてくることは出来ない。そして、引き受け(させられ)た性に踏みとどまり続けることの喜びあるいは苦痛を大半のヒトは抱え、その負の側面の加速が上記の断絶の進行に帰結しているのかもしれず、またその苦痛から離脱しようというヒトや、引き受け(させられ)た性を越えようとするヒト越えているヒトも、LGBTQなどの様々な概念やライフスタイルが多様性のもとに勝ち取られ/包摂し、かたちを与えられていくことからも遠く離れてこの作品は、分化する性以前の生命そのものという、いわば無限のあわいへ四畳半から思いを馳せていく…ようである。
ところで、最後のシークエンスで男と女のところに「来た」ものは何だったのか、外から聞こえてくる、ト書きによると「名前をもたない音」とは一体何だったのだろうか。具体的に指し示すことは未だできないのだけれど、上演において、その音に導かれるように四畳半の窓を開けそこから二階の部屋を出た女は、(その姿を客席から目視できない故に)もしかしたら未だ名づけようのない何かになった/あるいは戻ったのかもしれない、という感触がある。確かに、私たちは「男と女にわかれる」前のあの赤ん坊のように、男女分断の苦痛と進化の果てに男であることや女であることすら尾骶骨のように捨ててしまい、いつしか忘れて無くしてしまう時が来るのかもしれない(進化の加速としての胎内回帰!)。また同時にこの作品には捨て去ったそれをいとおしみ慈しむ遥か未来からのような視点―「この世のすべてを放棄して、それでも私たちはここにいた」―も感じられ、それが、この作品を極めて独特なものにしている。
■三田村啓示(みたむら・けいじ) 俳優。主に大阪・京都を中心に活動。2005年より空の驛舎所属、他にもジャンル・地域を問わず多くの演出家・劇作家の作品に参加。並行して近年では、舞台芸術の創作・受容環境にまつわる様々な活動にも取り組んでいる。現大阪アーツカウンシル・アーツマネージャー。第18回関西現代演劇俳優賞受賞。
撮影:小田嶋裕太

デモと身体ーPlaTEdgE『aw-thentic declaration』
竹田真理
撮影:大内真一/プラテッジ


演出・振付・出演:福森ちえみ
音楽:桃井聖治/ぶつぐ
映像:大内真一
10月20日、GRIDS KYOTO SHIJO KWARAMACHI HOTEL & HOSTEL
KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭2019 オープンエントリー作品
撮影:大内真一/プラテッジ
アメリカのポストモダンダンスについてのレクチャーを受けていて、「デモの身体」なる項目に出くわしたことがある。ダンスとデモ、唐突な取り合わせを訝しく思いながらも、二つを繋ぐ概念がジャドソン教会派の唱えた「デモクラシーの身体」に関わるものであることを後に知る。2012年のことだ。この時すでにアメリカの「オキュパイ・ウォールストリート」の動向が知られており、その後、香港の雨傘運動、フランスの黄色いベスト運動など、世界の様々な都市で街頭での示威行動が発生するようになった。日本では3.11以後、官邸前での反原発デモを筆頭に、沖縄の辺野古基地建設反対、特定秘密保護法や集団的自衛権への反対、ヘイトスピーチに対するカウンター、LGBTQのレインボー・パレード、女性への性暴力に抗議するフラワー・パレードなど、様々な政治的、社会的なメッセ-ジを発するデモが行われるようになり、私たちはその様子をSNSを通じて知るようになった。アメリカのポストモダンダンスは60年代の公民権運動やベトナム反戦運動を背景としたが、今日再びデモの時代が到来しているのだとすれば、今日のダンスはこれに応える身体や思考を提示しているだろうか。
デモを「何らかの意思や主張を公空間において身体をもって表出する行為」とするならば、パフォーマンスの一つの形態とみることができる。山下残とファーミ・ファジールによる『GE14 マレーシア選挙』(2019年2月TPAM、4月@こまばアゴラ劇場)は、現実の国政選挙運動中の「演説」をパフォーマンスに見立て、劇場で再現してみせた。こちらは演説であってデモではないが、政治的主張を伴った身体をパフォーマンスとして舞台にのせた数少ない例に挙げてよいだろう。さて、本作『aw-thentic declaration』もまた、政治の身体を扱った稀な作品の1つであり、しかもデモの身体に光を当てている。本作において福森ちえみと制作チームは、デモの身体の本質を「自然発生的な集合」に見る。日本でも盛んだった60年代~70年の安保闘争や学生運動のデモは、政党や労働団体、学生団体などの組織が主体となったが、今日のデモは個人の自由な意思による参加が特徴だといわれる。指示を受けるのではなく、主体の意志にもとづいた自発的な集合へのプロセスをどのように構造化するか。それを試みたのが本作である。
公演は主催者によって「オーディエンスを当事者として迎え入れる挑戦的なダンス作品」と銘打たれている。スーツケースを携えた一人の女(福森)が、旅支度を解き、露出の多いドレス姿になってアルゼンチン・タンゴに合わせて踊り始める。エロスを過剰に表出した踊りで傍らにいる男を挑発するが、その視線は鋭く射るようであり、相手を性的に誘惑しているというより、何かを強く訴え、突きつけ、告発するかのようである。女性性を前面に出しながらも、決して従順ではない強い女性像を打ち出している。
舞台を囲む観客にハグしたり膝に乗ったりする奔放な振舞い、手持ちのスマホで音楽を提供してくれないかとの呼びかけ、おもちゃの楽器を配り一緒に音を出すよう求めるなど、その後の出来事はいずれも観客をパフォーマンスの場に招き入れるための仕掛け=振付だ。会場は京都の繁華街にあるホステルのオープン・スペースを囲った作りで、囲いの外側を人々が自由に行き来し、ストリートの雰囲気が生まれている。行きずりの観光客もいつしか観客に加わっている。
舞台では観客に白い画用紙とマジックペンが配られ、各自、羊の絵を描くように促される。背後のスクリーンには牧場の映像が映し出される。促されるままに羊という動物の曖昧な記憶を絵にすると、ここから場は一気呵成の展開に入っていく。観客らは促されて立ち上がり、描いた絵を掲げる。このとき映像では牧場の柵が開き、「開放」が示唆されると、観客はその場で行進へと導かれる。客席でおとなしくダンスを見ていた受け身の身体からデモ行進する身体へ、観客の身体はいつの間にか、そして加速的に移行したのである。主張の伴わない擬似デモではあるが、立ち上がり、プラカードを掲げて歩く動作の体験は、意外にも私に晴れやかな気持ちをもたらした。SNSで情報を追うばかりの孤立した個の身体が、集合する身体への一線を越える。偶発性を装った一連のプロセスは、シンプルだが周到に構造化された振付だったといえる。
デモの行方は弾圧か解放の二つしかないと語る福森。本稿執筆中の現在、香港で起きている事態は混迷の度を増している。それでも路上を埋め尽くす人々の映像を見て、民主主義とはこのようにして勝ち取るものなのだと思い知らされる。画用紙に描いた羊は、囲われ、飼い馴らされた我々自身の姿であり、その「解放」を、本作で行われた一連の行為はうたっている。展開はシンプルだが力強く、様々な含意がある。ヨーロッパへ、南米へと世界を移動しながらインディペンデントにダンスの仕事をする福森だが、アジア人女性であるがゆえに受ける偏見や困難な体験を創作の発端とする本作は、#MeToo運動にも連携しうる政治的な動機をもつ作品でもある。しかしそうした主張自体を内容とするのではなく、人々を動かし=振付け、集合を自発的に生んでゆくための構造を、舞台芸術の形式の中で模索している。いわばひとつの原型の提示であり、ここから組織化のより洗練された形態を目指す方向も、あるいは政治性を引き入れ、現実の社会との連携をはかる実践的な方向もあり得るだろう。とくに後者においては。サウジアラビアの女性たちが自動車運転の権利を獲得した例に福森自身が注目するように、ジェンダーを巡る様々なイシューが今後の展開の鍵になるように思われる。再びデモの時代が訪れている今、そして政治性に対してナイーブであり続ける日本のダンスにとっても、刺激となり、実験となるパフォーマンスである。
■竹田真理(たけだ・まり)ダンス批評。関西を拠点にコンテンポラリーダンスの公演評、テキスト、インタビュー記事等をダンス専門誌紙、一般紙、ウェブ媒体等に寄稿。

新たな舞踊言語の開拓を ー きたまり/KIKIKIKIKIKI マーラー交響曲第二番『復活』
竹田真理
撮影:中谷利明

きたまり/KIKIKIKIKIKI 新作ダンス公演
マーラー交響曲第二番ハ短調『復活』
9月20日(金)~9月22日(日)
THEATRE E9 KYOTO
振付・演出:きたまり
出演:山田せつ子 斉藤綾子 きたまり
ヴィジュアル:仙石彬人[TIME PAINTING]
楽曲分析:BUNBUN
楽曲アドバイザー:田中宗利(関西グスタフ・マーラー交響楽団 音楽監督/指揮)
(9月20日、THEATRE E9 KYOTO)

マーラーの交響曲全10曲の舞踊作品化を進めているきたまり/KIKIKIKIKIKIが第4弾として交響曲第二番『復活』を上演した。『復活』は長大な交響曲の形式に世俗的で親しみやすい旋律が現れるマーラーの特長がよくわかる曲で、KIKIKIKIKIKIがこれまで手がけた1番、7番、6番の中では、最初の第一番『巨人』に印象が近い。そして振付から受けた印象も『巨人』と重なるものだった。マーラーに特徴的なキャラクター性が前面に出た楽章やフレーズにおいては、きたまりの機知に富んだ振付語彙が難なく引き出され、相性の良さを見せる。いっぽう、音響が雪崩を打って押し寄せ、混沌と崇高の間を激しく高下する局面では、楽曲の長大さ、提示する世界観の壮大さに舞踊言語が対応していないように見える。それは一振付家きたまりにとどまらない日本のコンテンポラリーダンス全般に内在した弱点といえるが、そもそもマーラーで踊るという企てにコンテンポラリーダンスが必ずしも向き合おうとする必然性はない。世界にはそれによって踊られるべき音楽というものが無数に存在しており(『春の祭典』のように時代を超えて多くの振付家が言語化に挑んでいる曲があり、音楽の視覚化といわれるバランシンの仕事があり、バッハから現代音楽、ジャズに至るまで音楽を構造レベルで分析するアンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケルの例もある)、個別のダンスのために新たに作曲される場合もあれば、音楽なしで踊るダンス作品も普通にある。その中でなぜマーラーを選ぶのか。作り手がマーラーの何に魅了されているのかが、説明ではなく目の前のダンスから伝わってくるのでなければ、音から振りへの単なる置き換えに過ぎないという皮相さに帰着してしまう。そして単に踊るための音がほしいのだとしたら、敢えてマーラー全10曲に取り組むと謳うことの意味が問われることになる。いわば企画の根本に関わる問いだが、今後も全10曲振付の貫徹を目指すのであれば、この点について作り手は何度でも、正面から向き合うべきだろう。
さてこのマーラー・シリーズ(とここでは仮に呼ぶ)における今回のチャレンジは、これまでの群舞を中心とした振付に対し、出演ダンサーをきたまり本人を含めた3人に絞ったこと、また3人それぞれの拠って立つダンス技術の基盤がはっきりと異なることである。舞踏の山田せつ子、バレエやモダンダンスの素養のある斉藤綾子、そして舞踏家のもとで最初の訓練を受け、その後コンテンポラリーのダンサー・振付家として活動するきたまり。こうした個別の技術と身体性の差異によって、楽曲に盛り込まれた様々な文化的要素――ドイツロマン主義、ユダヤ的旋律、民謡、軍楽隊や自然の音などの混淆するマーラーの音楽に対峙する。集団の力でマーラーの「大きさ」に食らいついてきた過去3回の公演に対して、今公演を特徴づける点である。特に第一楽章を丸ごと山田せつ子の完全なソロとしたのは大胆な試みだった。
運命を予感させる重く厳しい表情をもつ第一楽章に、山田せつ子は終始、舞踏の身体で応じた。弦の刻みで力強く前進する音楽に対し、アーティキュレーションを限りなく細分化した非抽象の身体を保ったまま、部位の連動でゆっくりとフォルムを移行させる。湾曲した腕、前屈気味の上体を静かに引き上げ、沈めると、周囲の空気もやわらかく浮沈する。このように山田の身体に自ずと作動する文法が踊りの細部を司るのに対し、きたまりの振付は敢えて手数を少なくし、身体の位置や方向、立つ・座る・屈むなどの基本の構えの指示にあったように見受けられた。舞台中央に立ち位置を据え、そのまま移動しない設定は戦略的であり、冒頭の音が入ると向きを後ろに変え、左手を大きく横に伸ばした後にあらためて正面を向くと、そこに一つの意味が生まれる。シンプルだが基本的な構えを決定していくことで、各場面で空間を意味づけ、身体のドラマトゥルギーを作り出していくのである。勇壮な音の運びに腰を落として構える。あるいは音楽の劇性に対し正面を向いて立ち尽くす。床に低く沈み再び立ち上がる過程にも身体のドラマがある。手足を技巧的に細工する意味での振付とは異なるが、こうした踊りの屋台骨を作る作業により、山田の身体が生み出すテクスチャーを保ちつつ、骨太で構えの大きい舞踊空間が生まれた。ただ、それがマーラーの音楽と深く結びついたものであったかどうかは別の話だ。山田の身体の求心力に引き込まれながら、私はマーラーの曲がどこか遠いところで鳴っているような奇妙な感覚に襲われた。山田のパフォーマンスの特異性が高まるほど、それがマーラーである必要から遠のいていく。山田は山田の、きたまりはきたまりの論理で踊り、作っているのであって、音楽とは「曲想」においての関連にとどまっているように思われるのだ。それこそが自律した踊りであることの証左とも言え、事実、山田のダンスは見る人を深く魅了したのだが、ことマーラーを振り付けると謳う限りにおいて、その音楽の本質や構造、歴史性とどこまで出会うことができたか。ダンスを観ることで音楽をより深く聴いたと感じるような、両者の特別な関係性を感得するものではなかった。
他の楽章についても振り返ろう。第二楽章は穏やかなワルツにフォルマリスティックな振付を施したデュオで、斉藤綾子ときたまりが対角線を交わらせるように歩を進める。踏み出した一歩の踵の上げ下げや爪先立ちを駆使し、膝をやわらかく使って3拍子のリズムの中で身体をゆったり上下させる。本作はクリエーションの一部を韓国に滞在して行っており、二楽章に韓国舞踊のステップを参照した箇所があると聞いたが、おそらくこの足の使い方を指すのだろう。白い衣装の清楚な印象も加わり、典雅な舞踊の様式をなぞりつつ等身大に引き寄せた踊りである。だが両手はポケットに入れたままで、時折上体をひねって客席に意味ありげな視線を向けるなど、優美なワルツを異化する要素がそこかしこに込められていて、様式に捻りを加える振付家の才気が伺える。第三楽章の3拍子スケルツォも、諧謔のきいた音形がきたまりらしさのある語彙を引き出す。対角線上を進みながら3拍子に合わせて躍動するきたまりのソロで、生き物のパロディや馬を駆ると思しき戯画的な動きが、動線上を隙間なく埋めていく。
ここまで、曲想や音のキャラクター性に応じる形でダンスが創作されている様子を辿ったが、この後の第4楽章、第5楽章にかけては、舞踊空間の構造化に苦慮する様が見て取れた。いずれもキリスト教の信仰、世界観、哲学に関わる楽章で、苦難や苦闘の末の復活、至高と神の栄光をうたうとされる。緊張と破綻とカタルシスを壮大に繰り返し、マーラーの巨大さを実感させる楽章だ。この巨大な壁を前に、コンテンポラリーダンスの身体は取り掛かりの契機を探しあぐねているように見えた。背後のスクリーンには仙石彬人によるヴィジュアルが音楽を色彩イメージに映し出して刻々と移ろっていくが、このヴィジュアルの展開に舞台の進行を預け、また各ダンサーに任せた即興的な乱舞で荒ぶる音楽に応じるなど、振付言語の創出を断念しているかのような場面も見受けられた。また演劇的な意味解釈によって音楽に応じようとする場面も見られる。3人のダンサーの関係に諍いと和解など具象性を付与することで、それまで少なくとも美学的、言語的に創造されてきた舞踊空間が文学的な意味解釈に侵食されていく。
日常性と地続きにあるきたまりの振付言語、あるいは地上的、具象的な舞踏の言語は、この4,5楽章の提示する西洋的で巨大な世界観からはひどく遠い。単に音として音楽を捉え振付をあてがっていくのでない限り、この距離は存在し続けるだろうし、そのようなポストモダンなアプローチは、ことマーラーの音楽に対して相応しいとは思われない。ただ、斉藤綾子が場面に入ると、地上的、具象的な舞踊空間に抽象性への志向がもたらされ、シーンを構造化する。斉藤の西洋舞踊の論理と歴史性を内在させた身体に、マーラーに対峙しうる可能性の端緒があったように思う。
きたまり自身の表現者としての資質を見れば、前作『あたご』のように日本の土俗に根ざした民間信仰を扱った作品や、儀式の身振りを取材した作品に優れた舞台を残している。日本舞踊を現代に振り付けたレパートリー『娘道成寺』を持ち、最近ではアジアの山岳地域に民族舞踊のリサーチにも出掛けている。どう考えてもこちらの方面に掘るべき鉱脈があると思われるが、それでもマーラーに挑み続けるのであれば、その意義を再考しつつ、この西洋クラシック音楽の大家の何に惹かれるのか、そして基盤にある思想や文化への深い理解と敬意も含め、音楽を体現するための新たな舞踊言語の開拓が求められるだろう。
■竹田真理(たけだ・まり)ダンス批評。関西を拠点にコンテンポラリーダンスの公演評、テキスト、インタビュー記事等をダンス専門誌紙、一般紙、ウェブ媒体等に寄稿。
ダンスで辿る女性芸能者の系譜
ー余越保子『shuffleyamamba』
竹田真理
撮影:igaki photo studio
提供:城崎国際アートセンター(豊岡市)


余越保子『shuffleyamamba』
2019/10/5~10/6
出石永楽館
構成・演出・映像・監修:余越保子
共同演出・音楽・出演:ゲルシー・ベル
ドラマトゥルク:筒井潤(dracom)
振付・ゲスト出演:砂山典子(dumb type)
共同振付・出演:上野愛実、大崎晃伸、渋谷陽菜、西岡樹里、福岡さわ実
コンテンポラリーダンスを広く芸能と結びつけ、西洋のアカデミズムとは異なる舞踊史を模索する動きが感じられる昨今、日本の古典を参照し、芸能史上の様々な女性像を呼び起こしながらダンスの歴史を俯瞰する本作は、ひとつの応答を示しているといえるだろう。国生み神話の主人公イザナミ、そのイザナミが生んだ不具の子ヒルコ、山に住む女性の妖怪・山姥など、神話や伝説にモチーフを採り、それらを合体させた独自のアイコン「shuffleyamamba(シャッフルヤマンバ)」が、芸能的想像力の源泉として、100年の歴史を誇る出石永楽館の舞台に降臨する。
冒頭、抑えた照明の中に現れる3人のダンサー(上野愛実、渋谷陽菜、西岡樹里)は、作品における黒子であり、コロスであり、歴史の闇をうごめく影たちでもある。足裏で床を捉え、コンテンポラリーダンスの文法で運ぶ緊張を保った動きに、時折、首の傾き、手のかざしなど日本舞踊の要素が入る。実人生でコンテンポラリーのダンサーである3人の存在は、正史の裏側を連綿と生き継いできた巫女、傀儡女、白拍子、時代を下って出雲阿国や芸妓、舞妓、今日のダンサーに至るまで、女性芸能者の系譜の暗示と見ることが出来るだろう。
本作は余越保子の16年前の作品『shuffle』(2003)をベースに、そこから主要なモチーフを引き継ぐほか、余越がアメリカに渡って以来の舞踊実践と個人史を貫くドラマ、さらには出演者各人の異なるキャリアを作品内容と不可分の要素として反映している。舞台ではダンサーたちが『shuffle』のモチーフ、イザナミと「チャネリング」する。映像に現れる白塗りに乳頭を赤く染めたアイコンは、余越自身が16年前に扮したイザナミのキャラクターに拠る。黄泉の国に下りたイザナミ。その子ヒルコは不具の身体で生まれたとされ、その異形性と未然性を示す奇妙な形のぬいぐるみが舞台に“降って”くる。さらにイザナミが山に入り姿を変えたともされる山姥。山に住む女の妖怪「山姥」は人に忌み嫌われ、一方で親しまれ、民間伝承のなかで多産、難産、豊穣にちなんだキャラクターとされる。平成の渋谷で若い女性たちが見せた奇抜な化粧や外見が揶揄と賞嘆を込めてヤマンバと呼ばれたのは、伝承が現代に生きている証だろうか。能や日本舞踊の演目『山姥』も参照しつつ、振付家の想像力が生んだ女性像「ヤマンバ」の像は、舞台上のスクリーンに現れ、コンテンポラリーのダンサーたち=現代の巫女たちと出会う。特に獣の皮をまとって現れる畏怖すべき姿の女性(福岡さわ実)が、イザナミ/ヤマンバとチャネリングを果たし、神話的な力の源泉をその身に受ける場面は、イザナミ、ヒルコ、ヤマンバを貫くドラマの鍵であると感じられた。
ヤマンバの豊穣さを体現するのはダンサー、パフォーマーの砂山典子だ。マイクを握り、舞台を巡りながら洋の東西のダンス史をレクチャーし、巫女たちの介添えで衣装を着け、バーレスク・ショーを繰り広げる。逆立つ銀髪、ピンクの羽扇を揺らす姿は、現代のヤマンバに相応しい華麗さと颯爽とした晴れやかさがあり、芸能の祝祭性を象徴し、劇場空間を祝福する。黒沢美香のもと「4人娘」の一人として、またダムタイプのメンバーとしても日本のダンスシーンの境界を生きてきた砂山のキャリアが作品の主題と響きあい、その祝祭性を裏打ちしている。芸能と性との切り離しがたい関わりを示唆するのも砂山である。電話インタビューに答える彼女の音声が、セックスワーカーの仕事とダンサーとを、どちらも「真剣勝負」と語る場面がある。己が身ひとつを他者との交渉の前線にさらして生きるセックスワーカー、そして他者の視線をその身に受けて舞台に立つダンサーの生業(なりわい)に、傀儡女、白拍子といった芸能者もまた性の従事者であった歴史が重なる。砂山の背後でバーレッスンを披露し、ともにショーダンスを踊る上野、渋谷、西岡のパフォーマンスは、秘めたるダンサー・スピリットをここぞと開花させる。場面ごとの3人の踊りが全編を通して骨格をなし、地となって作品を支えていたのも確かである。
唯一の男性キャスト(大崎晃伸)の存在は多義的だ。国生み神話のもう一人の主人公イザナギであり、男性性の様々な面を表象する。黄泉の国のイザナミと交信する男性神イザナギは、産み落とされた赤子となり、闘牛よろしく欲望を焚きつけられ、性産業のサービスを受ける個室の客にもなる。その男性性とはマチズモとは相いれないもの、むしろ未熟さ、弱さ、愚かさ、赤裸々さであり、女性のケアを受ける者としての男性性とも見える。彼の衣装はレインボーカラーのレオタードでカニングハムに由来するという。アメリカのポストモダンダンスらしい踊り手の属性を消すユニセックスな衣装だが、ここでは性を混在させた多様性の意味でのレインボーカラーと言えるかもしれない。男性はあるところで、自分も自由に踊ってみたい、すべてをさらけ出して、それがエンターテイメントになるなら素晴らしい、といった台詞をはく。女性性に対する憧憬と同時に、男性の解放を希求する言葉にも聞こえる。出演者の中で大崎は長期にわたり訓練を積んできたダンサーとは身体性を異にするが、その外部性も含め、女性ダンサーたちと対になり電話インタビューを通して砂山の言葉を引き出すなど、ナラティブのキーとなる配役であったように思う。
芸能における「女性性」に加え、「芸の継承」も本作の主題だが、この二つの主題を強く打ち出すのが上野愛実の発話による、ある伝統芸能者の語りである。幼少時、商売をしていた生家から邪魔者を払うように通わされたという踊りの稽古。成長して正式に弟子入りすることになった際の師匠の言葉が、内弟子になるということは全てを捧げることだと言い渡す。「あんたの時間をすべてもらいますからね」。その言葉が言外に意味することの底深い厳しさは、聞く者を粛然とさせずにはおかない。そこに身を賭す者の身体の、女性性の、生のすべてを欲する芸の継承とは、かくも凄まじく、悲痛を伴った、命を賭けたものであるかと思い知らされる場面だ。漂泊の中で己が身体と技芸一本を生業(なりわい)として生きる者がある一方、全てを捧げ、自由を捨て去ることで継承される芸能の、もう一つの真実を垣間見た思いである。上野の慟哭を抑えた生硬な発話は、劇場空間に凛と響き、聞く者を打つ。
さまざまな角度から芸能と女性性を問い、多くの場面に構成した本作は、モチーフと文脈が複雑に組み立てられた結晶のような作品だが、おそらくその核となるのが福岡さわ実の存在である。配役名がないので推察するほかないが、獣の皮をまとい、映像の「ヤマンバ」をその身に憑依させた福岡は、砂山の祝祭性と表裏をなす「裏ヤマンバ」、畏怖され、忌み嫌われ、芸能の晴れやかな成果の裏にある生みの苦しみを引き受けた、創造の苦闘の象徴であろう。伝説が山姥を難産に結び付けているように、最終場面の福岡はまさに「産む性」の命懸けの苦闘を、女土方(おんなひじかた)とでも呼ぶべき「立てない」身体で悶絶しながらパフォームする。白塗りも乳頭を染めていた赤色ももはや失せた、文字通り生身をさらけ出したほぼ裸体の身体は、びっしりと毛をたくわえた得体の知れないモノを股間に密着させている。不具の子として生まれたヒルコの異形性とも、ヤマンバの逆立つ毛髪を反転した「裏」もしくは「ネガ」の身体像とも見て取れるそれは、何より、産む性としての女性性のもつ創造の力、芸を生み、伝え継いでいく生業に存在の全てを賭ける芸能者の壮絶な生き様を示していた。その力を憑依させたがごとく福岡の身体が痛ましく凄絶、かつ崇高であったことを記しておきたい。
歴史に名を残すこともない女性芸能者の生き方とその系譜は今日のダンサーにも引き継がれている――本作が示すダンス史のパースペクティブは、現代を生きるダンサーたちの希望となるのではないだろうか。最後に、西洋音楽の古典から現代音楽までを習得し、能や長唄を学んだゲルシー・ベルの音楽は、ベルの声が効果音から朗々たる謡へ、西洋の声法へと、創造性ゆたかに変容し劇場空間を満たしていく様が、非常に特異であり、素晴らしかった。
■竹田真理(たけだ・まり)ダンス批評。関西を拠点にコンテンポラリーダンスの公演評、テキスト、インタビュー記事等をダンス専門誌紙、一般紙、ウェブ媒体等に寄稿。
撮影:igaki photo studio
提供:城崎国際アートセンター(豊岡市)

「ケソン工業団地」から考える
—グループ展『ケソン工業団地』(KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2019)
坂本秀夫
会場入り口。この項撮影は筆者


ケソン工業団地
2019年10月5日(土)- 10月27日(日)
京都芸術センター ギャラリー南、講堂、大広間、ミーティングルーム2
半島を南北に隔てる軍事境界線からわずかに北。ケソン工業団地は、朝鮮民主主義人民共和国が土地と労働力、大韓民国が資本と技術力を提供して形成され、南北双方の人々が共に働く特異な場として2004年から10年以上にわたって操業されていた。しかし現在は両国間の政治的緊張のため2016年より閉鎖されている。
2018年の夏、文化駅ソウル284で開催された展覧会「ケソン工業団地」は、ケソン工業団地を外から見た大きな経済の物語として語るのではなく、そこで日常生活を送っていた一人ひとりによって築かれていた親密なコミュニティにフォーカスし、ケソン工業団地の新しい肖像を描こうとする企てであった。その展覧会から、3人のアーティストによる作品を京都で紹介する。
縫製工場を模したイ・ブロクの『Robo Cafe』にはミシンを備えたテーブルが並び、生産性に関するスローガンを縫い取ったテーブルクロスがかかっている。
棺を背負って山を登るイム・フンスンの映像作品『Brothers Peak』から、ソウルのゲイコーラスグループ・G-Voiceの歌声と脱北者のイ・ヒャンが演奏するアコーディオンが響く。
南北の労働者が互いに交し合った贈り物を提示するユ・スのインスタレーションでは、贈られた物を見つめることによってケソン工業団地の本質的な意味は何だったのかを問いかける。
越境が可能な限られた時間の中で南北の人々の交流が育んだ種は、いかに未来へ開かれてゆくのか。(京都芸術センターのウェブサイトの紹介文)
左:ケソン工業団地の24時。休憩時間の風景
右:ユ・ス氏の作品。後方に「ドラ展望台から見たケソン工業団地」
まずタイトルがすごい。「ケソン工業団地」だ。
「KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2019」の公式プログラム一覧の中でも一際異彩を放っており、「ケソン工業団地」の背景と政治性の強さに身を強ばらせてしまう。
言うまでもなく、北朝鮮が土地と労働力を韓国が技術と資本を提供して大工業団地を作ろうと進めた共同開発計画を行った北朝鮮内の土地のことだ。共同開発計画そのものの呼称ともとられるらしい。多くの韓国企業が進出し2004年末頃から生産を開始していたが、北朝鮮の核実験などの政治的緊張により、2016年に操業停止となっている。
「KYOTO EXPERIMENT」は国際舞台芸術祭と名がつくが、舞台芸術に限らず、映像作品や美術作品等も毎年のように公式プログラムに含まれている。
韓国人作家たちによるグループ展であるこの作品は、2018年夏に韓国の文化駅ソウル284で開催された『展覧会「ケソン工業団地」』の中から、3人のアーティストによるインスタレーションをこの度KYOTO EXPERIMENTで展示した作品のようだ。
会場である京都芸術センターという建物そのものを大きく使っており、会場内の各フロアにそれぞれに作品を展示するという形態をとっている。それらや各所に配されるハングルでの垂れ幕なども含めて、京都芸術センターという施設の過半がケソン工業団地化しているのかのような独特の空気を醸し出している。
(北朝鮮に対して肯定的な印象を持っていないこともあってか)ここでも鑑賞者である私には緊張が走る。
●「ケソン工業団地の24時」
会場に足を入れると、すぐにエントランスでの絶え間ないメトロノームの音が耳に入る。振り返ると「ケソン工業団地の24時」という映像が流されており、会場の入口から既に「ケソン工業団地」が始まっていることを理解する。
稼働していた頃のケソン工業団地の労働者たちのタイムスケジュールを紹介したような映像で、「〇〇時出勤」「○○時作業開始」「〇〇時夕食休憩」といった具合にメトロノームの音やテロップとともに、ケソン工業団地での労働者たちの姿が写し出される。
2交代制の工場で働く、労働者たちの作業風景や、休憩時間の様子だ。乳幼児がいる者は休憩時間に子どもの世話をしていたりする。
私はかつて、短期ではあるが自動車工場のライン工をやっていたことがある。2交代制で、ラインで並んだ労働者が自動車のパーツを取り付けていく工場だ。その頃のことを思い出すことが出来た。同時代の日本の工場を思い出すことができたほどに、本当に、普通の2交代制の工場の労働者の風景だった。その普通のぶりが驚きであった。
この映像作品のみパンフレットなどに作者のクレジットがないが、「ケソン工業団地」の紹介映像として作られた映像らしい。記録映像風の映像を編集したような内容であり、おそらく韓国側作成の資料なのだろう。※
※「2018年に韓国のソウルで行われた特別展覧会“ケソン工業団地”のアーカイブ事業として作成されたもの」らしい。同映像のスタッフクレジットより。
北朝鮮の労働者たちが過酷な生活環境に置かれており、毎年餓死者も多数出ているほどだということは周知されていると思う。ではこれが再現映像でないのであれば、例えばこの北朝鮮の労働者たちは、本当にこのような近代的な労働環境であったのか?撮影用のエキストラではないのか?宣伝用のタイムスケジュールではないのか?一部の例外的な労働者たちなのか?ケソン工業団地の労働者だけは違ったのか?などと訝しんでしまう。


●ユ・ス(写真)「ケソン工業団地、北からの労働者」「ケソン工業団地、南からの労働者」「ドラ展望台から見たケソン工業団地」「ケソン工業団地の贈り物」
複雑な気持ちを胸に会場を進んでいくと奥のギャラリーには、ユ・ス氏の作品がある。
一枚板のモノリスのようなオブジェが複数並んでいる。それにはケソン工業団地の労働者らしい者が、モノリス一枚につき一人が大きく写っている。ギャラリーの奥には、まるでこの空間の背景画のように「ドラ展望台から見たケソン工業団地」があり、反対側には「ケソン工業団地の贈り物」が展示されている。
秀逸なのは、そのモノリス状の一枚板は裏表になっていて、片側には北朝鮮の労働者が写っており、もう片側には韓国の労働者が写っていることである。一人一枚、肖像や証明写真のように大きく写っているそれが、北と南の裏表になっているのだ。シンプルでありながらドキリとする見せ方になっている。現場の労働者から部署の責任者まで、様々な人がいるが、(ここでも)みな普通の労働者達に見える。その人物たちは、真剣に仕事をしている様子か、あるいは笑顔である。しかしその笑顔がどこか悲しく見えるのは、我々が、この工業団地が現在どうなっているかを知っているからだろう。さらに北朝鮮の体制を含めて勘ぐるならば、この北側の人たちは現在も健康に生存しているのだろうか?そもそもこれも撮影用のエキストラの可能性もあるのではないか、などと考えてしまう。
後方にある「ドラ展望台から見たケソン工業団地」は文字通りケソン一帯を高所から俯瞰した風景画のようなものだが、これによって、この地は周囲を山に囲まれた盆地であったと知る。周囲と隔絶し切り離された地のような場所だったのだ。
夕日にも朝焼けにも見えるこの風景。これを背景に、もう一度遠くから全体を眺め、先のように労働者たちに考えていると、証明写真のようだったモノリスは墓標や遺跡のように見えてしまい、鑑賞者によってどのようにでも受け取ることのできる幅の広い作品であることに気づく。
そう、この作品は、「ケソン工業団地」やそれに携わった人々に対して、特別に否定も肯定もしていない。主張などせず、ただその地とそこで働き交流した人々を写しただけである。が、どこか悲しい断絶された過去の楽園の記録のように見えるは、やはり私がそう見ているからだろうか。
さらに(裏表になっているため当然ではあるが)、片方からでは片側の人物しか見ることができないということがわかる。
これは示唆的だ。そうなのだ。様々な情報が漏れ聴こえてくるが、北側の庶民たちの本当の実態を知るためには、北側からでなければわからないのかもしれない。北の統治体制の実態や国内外の政治的な問題はさておき、労働者たちはごく普通の人たちに見える。
そして背景には、日没とも朝焼けとも取れる色合いの風景。見るものに解釈の選択を委ねている広がりのある空間が現出している。
逆側から見たユ・ス氏の作品。奥に「ケソン工業団地の贈り物」

風景の反対側には「ケソン工業団地の贈り物」が展示されており、展示室の手前から見るならばこれをもう一つの背景と見ることができる。これはどうやら、この地の労働者間での贈り物や交流の記録らしい。
同じ場所で働いた北朝鮮の者と韓国の者とがそれぞれ簡単なお菓子を送ったりしていたらしく、そのお菓子そのものの写真をただ展示しているだけだ。あるいは、職場の記念写真のように北の者と南の者が一緒に写っている写真や手紙など。こちらもとてもシンプルな作品ではあるが、1枚1枚に添えられている説明を読むとその物品が背負う経緯が立ち上がってくる。
注目したいのは、先の「北からの労働者~南からの労働者」でもそうだったが、ただ人物のみ、ただ物品のみが写されていることだ。非常に抑制的な表現だ。記念写真のように並んで写っているのが最大限の接触であり、例えば南北の交流に歓喜の表情で抱き合うようなものなどは無い。この抑制的な表現が大きな効果を生んでいる。ただ個人個人だけを写し、その間を行き来したであろう簡単な贈り物だけを写している。だからこそ、その間の交流のやりとり、そして当時の距離と現在の距離を想像させられる。
「贈り物」は日本にもありそうな簡単なお菓子やキーホルダーのようなものだ。それそこ日本のコンビニなどにも売っていそうな。しかしそこに書かれているハングルにより、これは南北間を行き来した―現在であれば壮大な垣根を越えた―「贈り物」だと想起されられる。
●イム・フンスン(映像)「Brothers Peak」
大広間では、広い大広間の中心部の大きな板状のものに映像を写している。これもまた裏表になっており、同じ音声のもとに、裏表それぞれ違う映像が流れている。一方は、棺を担いで山を登るアーティストの個的な映像であり、もう一方はケソン工業団地の閉鎖から2018年の南北首脳会談などケソンを巡る政治背景及び社会の動きなどの説明となる映像だ。ユ・ス氏の写真作品が北と南を裏表として表現していたのに対し、こちらは個人と社会(政治)を裏表にしているように見える。
ケソン工業団地の閉鎖の9ヶ月後に、ケソン工業団地の企業に関わった人々が国会前で、葬儀を模した集会を行い工業団地の運営再開や南北経済協力の再開への願いを表明したようで、その映像も流される。そして件の棺はその集会で使われたものだそうだ。
棺についてだが、(恐らく閉鎖に対する抗議集会のようなものではと思うが)「死亡通知:ケソン工業団地は永眠しました」との字幕とともに、工業団地や共同開発計画そのものを擬人化しての抗議表現か、あるいは(私は韓国朝鮮の文化に疎いのだが)伝え聞く朝鮮半島独自のシャーマニズム文化や哲学によるものだと思う。死亡した「ケソン工業団地」を納める棺ということだろう。
その棺を背負って山を登る映像が大広間に入るとすぐに目に入る。入口側に映写されている個的な映像の方では棺を背負っての登山が行われているのだ。あまり足場が整備されておらず木々も生い茂っている、慣れていない者には大変そうな登山だ。ようやく頂上の岩場にたどり着き見下ろすと、そこからは遠くケソン工業団地が見える。終盤に挿入される哀愁を感じさせる歌により、この映像だけを見ると、急に感傷的な作品が出現した、と感じるがそう単純ではない。
奥側に映写される社会的な映像の方では、立ち入り禁止となった工業団地や操業が停止された日付で止まっている日誌、工業団地の資料などが映されながら、件の集会の様子を挟んだ後、2018年の南北首脳会談へと移っていく。興味深いのは、音声と字幕が首脳会談の説明(TVの音声等や会話等)になっているのにも関わらず、映像としてはミシン台や無人の事務所、廃墟のような工場を映し続けているところだ(この間反対側の個的な映像では山を登り続けている)。つまり、音声、個的な映像、社会的な映像と、それぞれが別のものを映し出している。ここでも表現は二層三層となっているのだ。
左:イム・フンスン氏の作品。裏表の映像+音声の三重構造
右:イム・フンスン氏の作品。差し挟まれる南北首脳会談のニュース映像
