Drama
Review
2020年6月30日
review
宝塚歌劇雪組『ファントム』、突劇金魚『墓場のオサムと機嫌のいい幽霊』、
サイトウマコト『たまきはる』、木ノ下歌舞伎(きたまり)『娘道成寺』
上念省三
庄波希+新宅加奈子『raw』、プロトテアトル『X X』、Co.edge『漂う霧の影』
上念省三
「キビるフェス2019 福岡舞台芸術祭」を見て
須川 渡
□ 地点:#ミュラーの肩上で、2020年代向けてアジってみた
地点『ハムレット・マシーン』
瀧尻浩士
相模友士郎『エイリアンズ』
竹田真理
栗山民也演出、アルベール・カミュ作『カリギュラ』
藤城孝輔
cross review したため『擬娩』1
わたしがめだかだったら―和田ながらというジェンダー
岡田祥子
撮影:守屋友樹
したため #7 “擬娩”
2019年12月6日~9日
THEATRE E9 KYOTO
演出|和田ながら
美術|林葵衣
出演|岸本昌也 増田美佳 松田早穂(dracom) 三田村啓示
照明|吉田一弥
音響|甲田徹、林実菜
舞台監督|北方こだち
制作|渡邉裕史(ソノノチ)
京都公演制作協力|田中直樹(劇団ひととせ)
京都芸術センター制作支援事業
助成|京都府文化力チャレンジ補助事業(京都公演)
主催|したため
■岡田 祥子(おかだ・さちこ)
16歳から短歌に熱中、寺山修司の短歌『田園に死す』を愛唱する高校生だった。この頃から観劇はアングラ中心で、大学で山海塾の『金柑少年』を観た日の衝撃は忘れられない。高校の国語科教員となり、退職まで演劇部の顧問として、寺山修司、チョン・ウィシン、唐十郎、等々、高校生と戯曲に向き合い、芝居作りを楽しんだ。リタイアした今、これからは、観る人、書く人になりたいと思い、現在、應典院のモニターレビュアーをつとめている。
昨年の12月のことになるが、THEATRE E9 KYOTOでオープニングプログラムの一つであるしたため #7『擬娩』を観た。タイトルの「擬娩」とは人類学の用語で、広辞苑には「妻の出産の前後に、夫が出産に伴う行為の模倣をする風習。クーバード。」とある。したためは、演出家の和田ながらが主宰し、京都を拠点に活動を続ける演劇ユニットである。本作には、岸本昌也、増田美佳、松田早穂(dracom)、三田村啓示が出演し、美術は林葵衣が担当した。彼らの共通項は全員が出産未経験者であるということ。当日パンフレットには「未経験者ばかりが集まって、未知の経験を、本もネットも体験談も使えるものはとにかく使ってアタマに詰め込みカラダで悩みつづけた」と、学術用語に軒を借りながら『擬娩』という名の妊娠・出産のシミュレーション演劇を作りあげていった様子が紹介されている。
『擬娩(ぎべん)』。この奇妙な、そしてあまりに演劇的な習俗は、さまざまな分断に取り囲まれた今のわたしたちにこそ必要な想像力に違いありません。 (『擬娩』チラシより)
分断に取り囲まれたわたしたちに残された手立ては、想像力の再起動だ
産まれたことはあるけれど産んだことのないひとたちが自分を生むためのスタディ
(『擬娩』台本より)
「擬娩」という風変わりな設定をした動機や目的について語られている箇所をチラシと台本から引用してみた。「分断」と「想像力」という言葉が目を引く。
ありきたりな解説から始めるが、言うまでもなく今の日本は経済優先主義が横行して、格差は広がり、市井の庶民の生きづらさは増すばかりである。給料にリンクする評価システムは職場の人間関係を切断し、労働組合は見る影もない。一方、旧態依然とした男性中心の価値観に下支えされて、ナショナリズムは刻々と不気味に膨れあがってきており息苦しい。「女性活用」などという言葉に、女たちは経済、精神両面で自立を夢見るが、どこにそんな職業があるだろうか。扉は開かない。「産めよ、殖やせよ」「産児報国」という戦前・戦中の悪夢のような標語は「少子化対策」という言葉に姿を変えて蘇ってきた。妊娠・出産という最も自然で個人的な現象が、どうして国家や政治にくちばしをさしはさまれなければならないのか。たかだか明治の末に出現してきたに過ぎない家制度。「男児を産んで、家を守るべし。」という旧弊な社会通念が、相変わらず絶対権力のごとく幅を利かせて、「出産適齢期」を迎えた女たちを圧迫する。2020年の今も、女たちの神経は、何代も前のままの無知蒙昧で巨大な圧力に逆撫でされ脅迫され続けている。
1970年代、国家規模の歴史的ハラスメントに気づいた女性たちは、「ウーマンリブ」として立ちあがり戦った。フェミニズム第一世代である。以来40年以上が過ぎた。今も続く、いや以前より酷くなっているかもしれない、分断され煽られ疲弊する若者たちの現況を、和田ながらは認識しているが、リブ世代と同じ手法では動かない。彼女は対立しない。「想像力」の翼で現実を包みこんで飛び立って、虚構世界で現実を「再起動」させる。つまり演劇を創るのだ。相手の懐に入り「産めと言うなら産みましょう。ただしリハーサルです。」と言ってのける。
わたしは妊娠したことがありません。したことがないので、できるのかもわかりません。わたしは妊娠 にあこがれているのかもしれないし、妊娠を恐れているのかもしれない。……略……その時ひらめいたのが、妊娠と出産のリハーサルでした。妊娠したことがない人間が妊娠をリハーサルするなら、女だけじゃなくて男も一緒にリハーサルしてみよう。 (『擬娩』チラシより)
さて『擬娩』について語ろう。出演はチラシの言葉通り男女混交の4名である。舞台はブラックボックスで、シンプルな素舞台でもある。四角いフレームが4個、上から吊るされている。枠にはびっしり縦にテグスが張られており、摺りガラスのような効果が表れている。枠は特大・大・中・小と4サイズある。また、舞台全体にも横向きにテグスが何本も張られている。白い木枠で囲まれた、長方形の入り口が下手にあり、そこから光が差し込んで来ている。産道を表現しているようである。
開演、ギリギリとネジを巻くような音が断続的にする。丸まりながらゆっくり後ろ周りで回転しつつ役者が次々と下手入り口から出てくる。「ギ」「ギ」と言いながら転がる。伸びて仰向け。立ち上がってそれぞれの枠の後ろに立つ。テグス張りの枠を使う理由は、固有名詞を消すことにあるらしい。人間の顔には情報がありすぎるので、役者の体全体に観客の注目を移したいためだそうだ。舞台美術の林葵衣は神経のメタファーとして発想し、いざ舞台に乗せてみるといろいろ使えて面白かったと言う。
男女2名ずつの役者が、テグスの摺りガラス効果によって匿名化された状態となり、順繰りに語り出す。
岸田:「産まれたことがあります。産まれたことはありますが、産んだことはありません。」
増田:「産まれたことがあります。産まれたことはありますが、産むのかはわかりません。」
三田村:「産まれたことがあります。産まれたことはありますが、産めるのかは知りません。」
松田:「えーーーーーーーーーーー、あの、産まれたことを覚えてますか、と尋ねられたら、正直に申し上げますが、本当に産まれたのかどうか、当時のことを忘れてしまったので、たしかではなくて、……略……はい、あります、産まれたことはあります、が、産むことを知りません。」
『擬娩』台本:1)「まずはいまここにある身体について」より
4人がそれぞれ、かつ一様に主張するのは、自分は「産んだ」ことはなく、「産む」かどうか、いや「産む」とはどういうことかすらわからないということである。彼らに確かなのは「産まれたことがある」という事実だけである。「産まれたことがある」事実をのみ了解しているという原点に立って、そこから始める確認をしたあと、彼らは「妊娠・出産シミュレーション演劇」の途に就く。
まず「かおかたちからだについてのでこぼこ。見えること見えないこと、遺伝的にあらかじめ備わっていたことと個人として起こった出来事」(『擬娩』台本より)が語られる。体や形質の特徴についてのさまざまな記憶、これらは出演者が持っている思い出なのかもしれないが、匿名化された状態の役者から発せられるので、言葉は曖昧に拡散して空中を浮遊し、個人の記憶が一般論となってゆく過程が面白かった。
次いで、2)「受胎告知」となり、妊娠について語り出される。つわりのこと。習慣のこと。体形の変化のこと。私にも思い当たる節のこともあれば、初めて聞く話もある。12月8日のアフタートークで裏話として「本番の一週間前までは芝居の形をなしていなかった。『たまごクラブ』や経産婦の体験談から得たあらゆる情報が稽古場に氾濫していた。」と語られていたが、入念な取材から得た膨大な情報が整理されて出て来ていたのであろう。淡々と話は進む。実は、私はこの辺りで退屈し始めた。
そもそも私は最初『擬娩』というタイトルに、ケレン味とうさんくささを感じ「行かない。」と拒んだのを、娘に強く勧められて、思い直して出かけたのである。
34年前に出産した。そんなにも前のことなのにさまざまなことを思い出す。私はごく普通の人生をごく平凡に歩んできた人間だが、それでも出産の話となると、関連して受けた有形無形の抑圧と圧迫、それを上回る喜び、ありとあらゆる過去が押し寄せてきて、今でもなかなか冷静には語れなくなる。出産ほど喜ばしいものはなく、出産ほど人間、とりわけ女性を、肉体的、精神的に苦しめるものはないだろうと考えている。
出産を語るとき母親たちは一様に饒舌になる。武勇伝のごとく語り出す。出産はそれぞれに違う。しかも自分のみが知ることで、ワンマンショーとして神話的に語れ、だれも否定できない。出産は母たちの聖域、産まざる者は立ち入るべからず。産んでもなく専門家でもない者が大っぴらに出産を語ることはタブーではなかったか? 出産で発生するのは幸せだけではない。それは語られず、そっと伏せられる。出産にまつわる人の心の闇は深い。だから、火中の栗を拾うような真似はするものじゃないよ。そんな気持ちを私は抱いたのではなかったか。あるいは、こんな思い。書店の棚を思い浮かべる。出産関連の本はカラフルな実用書かお堅い医学書、変わったところで民俗学か女性学の学術書。ときめかない。私には過ぎたことだし、飽きた。新しい可能性があると思えない。あえてこのテーマに手を出さなくてもいいんじゃない? そんな思いがくすぶって当初の躊躇があったとも思う。私は舞台を眺めながら「そんなん知ってるし。わかるけど、……しゃぁないやん。」と内心でつぶやいていた。
「妊娠あるある」に私が興ざめして飽きてゆくのに反比例して、舞台の上では役者たちの演技がヒートアップしていっていた。とりわけ三田村啓示は痛々しいまでの熱演であった。面白かったのは、役者を匿名化していたテグス張りのフレームが、子宮口など違う用途に使用されたときに、役者の顔が露出しても匿名性が維持されたことである。出演者たちは枠という仮面を取っても、観客にとって、憑依される依り代にすぎないと感じられる存在になっていた。本作では役者は言霊を響かせる器に徹し、その最たるものが三田村だったように思う。
しかし、突然雲行きは変わる。舞台の上に「出産」が訪れた。長い助走から一気に飛翔へ。空気は一変した。ここからは写真家の志賀理江子の文章『亡霊』が出産のテキストとして使用されたのであるが、志賀の卓越した描写力が舞台を激変させた。言葉の力とはここまで凄いのかと、ただただ私は驚嘆していた。引き込まれていた。志賀の言葉が、役者たちの肉声によって立ちあがり、産むことの本質を伝える生の声として舞台に響きわたる。出産の個人差? 関係ない。一個人の経験が的確な表現の形を獲得したとき、普遍となって世界に真実を告げる。音響として使われている暴走してくる馬の足音や嘶きが状況にマッチしてさらに切迫した緊迫感を生みだす。
岸本:ついにその時が来た。彼は旋回しながら産道を降り始め、私は覚醒し、全身は海になった。……略……今以上痛くなれば、私は沸点を超えた熱湯のごとく泡となり吹き出し、飛び散ってしまう。
松田: ……略……混乱する意識の中、振り切れる目方針のように何度も死に近づかなければ彼を呼べないのだと自分に言い聞かせ、いや、彼が私を呼び戻しているのか、と 思い直す 。……略……。
三田村:生まれゆく人、命尽きた人のいる場所は同じかもしれない。……略……。
(『擬娩』台本:9)志賀理江子『亡霊』より)
撮影:守屋友樹
そうか。産むことしか考えていなかったが、生まれてくる命も血みどろで戦っていたのだ。生まれようとして私も苦しんだのか。そういえば私は仮死状態で生まれて来たと母に何度も聞かされていた。修羅の混沌の最中、一歩違えば私は生まれて来ていなかったかもしれない。5年前母を看取った。絶命まで大変だった。ある朝母の口中は血で真っ赤だった。傷があるわけではない。苦痛に歯を食いしばって血まみれになったのだ。こんなにも死ぬのに人は苦しまなければならないのかと暗澹とした。怖れた。しかしいずれ私も死ぬ。逃れられはしない。台詞を聴きとめ理解する一瞬の間に、私は母子三代にわたる生と死を実感し、掌にまさぐっているようだった。「生まれゆく人、命尽きた人のいる場所」へ続く無限の世界が広がるのを感じていた。
三田村:……略……身体とはそもそもこの世界、自然の一部分としてまずあることを感じ、身の回りの膨大な情報は脳によって感じ過ぎぬよう制御されていたのだ。……。
増田:……略……本当の日常はこのようにあるのかもしれない。あらゆる感覚の限界値が決壊し、ダムのように溢れ、入ってくる。ごく薄い皮膚が肉や骨や内臓を危うく包んでいるだけだ。私の存在は、意識よりも先に、ある。
岸本:太古から一度も途切れず、誰も例外なく子宮を過ごし子宮を過ごし繋がれていることに今更驚く。 (『擬娩』台本:9)志賀理江子『亡霊』より)
容赦なく肉体に降りかかる前代未聞の暴力、陣痛。産婦は分娩台の上で生涯において初めて誰にも何ものにも頼らない自分と出逢う。自分が産み落とさなければ子も自分も死ぬとわかったとき凄まじい力が噴出してくる。
岸本:……略……残り少ない全身の力で彼をこの世へ送り出すように力んだとき、私は痛みの遥か先に着地した。
増田:そして、身体の一部であったはずの腹辺りの骨や肉が、とても温かい液体に突如変質し、股からドッと 溶け出ていったように感じた。
三田村:そのとき、彼は重力を受けたのだと思う。 (『擬娩』台本:9)志賀理江子『亡霊』より)
出産が終わり、静寂が戻る。役者たちは、命を産み出す者として模擬出産体験をすると同時に、もう一度産み落とされた者として闇から光の中へ現れる、胎児から嬰児になる経験をした。産道を抜けてゆく苦痛のなかでは生も死も紙一重の近さであること、自らの生身の肉体の中にも死が孕まれていること、自らは死も孕みつつ母の子宮から生まれたことを実感し、この圧巻にして荘厳なシーンは終わる。
「うめよふやせようめよふやせよかしてさんねんこなきはさてかしてさんねんこなきはさてさてしゅっさんえくすまきなしゅっさんえくすまきなこのみちとじたらむだですかぶらいだるちぇっくぶらいだるのちぇっくぶらいだるをちぇっくせいさんせいわたしたちはへっているこれはくにがしゅごですへっているくにですあんでっど……略……」 (『擬娩』台本:11)「ララバイ」より)
舞台は出産の感動から離れ、無機質な口調のラストシーンに突入する。「ララバイ」と名付けられた最終章は、不思議な呪詛のように連なって語られ、聴きとれる文言はことごとく恐ろしい。あげたのは冒頭の部分であるが、戦前の国策に沿った標語「産めよ、殖やせよ」から始まり、貝原益軒の『女大学』の有名な言葉「嫁して三年、子なきは去」るに次々と繋がってゆく。女が子を産む道具としての存在価値しか認められていなかった『女大学』の時代も、「女性活躍推進法」が施行され活躍大いに期待される現代も長屋の隣同士のように地続きであることが呪文のような子守唄で示され、彼らの「妊娠・出産のシミュレーション演劇」は終了した。
演出が「ララバイ」で締めくくったことの意味は重い。育てる者が育つ者に対していつくしみと慈愛に満ちて口ずさむものが子守唄であるという認識をくつがえし、成長過程で日がな聞かされてきた愛の唄の中身はこれだとする風刺は容赦なく手厳しい。のんびりと自分の「かおかたちからだについてのでこぼこ」を語るところから始まった芝居は、自分を取り巻く社会や時代の毒と歴史の闇を充分知り尽くしたうえで無心に遊ぶ怜悧な子どものような印象を残した。私は『擬娩』の不思議な味わいに魅せられて二度観劇した。観劇後数カ月経ったが今も折に触れて和田ながらという人物を思い出し、その世界を反芻している。彼女にはやわらかなつよさを感じる。彼女にこんな一文がある。
…… 略 ……このからだの中に、自信をもって「わたし」と主語をとれるものは、ほんのわずかしか住んでいないのかもしれない。ということを、稽古場で膨大な言葉を散らかした先に、ふっと気づいた。……略……わたしはこのからだを借りている。あるいは、わたしは遺伝子にわたしを借りている。そう思えた時、なんだかとてもすかっとした。(『擬娩』当日パンフレットより)
『擬娩』最終章「ララバイ」に戻る。引用箇所に続きぶっそうな言葉が続いてゆくのだが、後半ふと転調する。
……略……このきもちはだれですかほるもんはわたしですかそれともどなたさまですか……略……わたしがはさみむしだったらさんごうつにはならないわたしがかたつむりだったらつきさしてやるわたしがめだかだったらたまごのことをわすれてたべてしまうかも……略……。
(『擬娩』台本:11)「ララバイ」より)
勇ましいシュプレヒコールから不思議なあどけなさへの転調。「わたしがめだかだったらたまごのことをわすれてたべてしまうかも?」思わず微笑が浮かぶ。どちらも和田ながらなのだろう。当日パンフレットの文と呼応し、自然体で生きる和田ながらの等身大の声が聞こえてくるようだ。「わたしは遺伝子にわたしを借りている。」と思うことのできる彼女にとっては「ほるもん」も「かたつむり」も「めだか」もみな仲間なのだ。
かつてのリブ世代は出産にまつわる女の痛みや苦しみの原因は社会構造の中のジェンダーの問題にあるとし、幸せになるために社会を変えることを目指して政治的に戦おうとした。対立と闘争が起き、多くの者が傷ついた。
たまごのことをわすれてたべてしまうめだかのわたしは、わたしがめだかだったら、めだか社会のだれにも責められないだろう。めだかのジェンダー。わたしをめだかにするのは対立でも闘争でもなく「想像力」である。
もしかすると、和田ながらというジェンダーは、あらゆる差異を超えて世界を結びつけるかもしれない。観劇直後からずっと伝えたかった言葉でこの文章を締めくくりたいと思う。とても単純なエール。「それでよいのだ。あなたは分断を越えられるかもしれない。」
撮影:守屋友樹
cross review したため『擬娩』2
どうしようもなさとの戯れ
渡辺健一郎
撮影:守屋友樹
■渡辺健一郎(わたなべ・けんいちろう)
2019, 2020年度ロームシアター京都リサーチプログラム「子どもと舞台芸術」リサーチャー。論文に「ジャン=リュック・ナンシーの上演理論――スペクタクルと共同性をめぐって」など。演劇と教育との関係を、理論的、実践的に探求している。
西村清和『遊びの現象学』勁草書房、1989 ここで西村は遊びについて「遊び手と遊び相手とのあいだにおのずと生じる、主客分ちがたい関係」にあるとしている
(本文では「出産」という単語を頻繁に使いますが、ここでは子どもがまさに誕生するその瞬間のみならず、妊娠から誕生までの長い期間を問題にしています。この期間を一括りにする適当な単語が見当たらないので、便宜的にこの期間をまとめて「出産」と書きます。誕生の瞬間は「分娩」と表記します。)
わたしは32歳、男性です。異性との婚姻関係を結んでいます(以下、この異性を妻と呼びます)。子どもはいません。妻の仕事の都合で、われわれは半年前に東京から関西に引っ越してきました。今のところ世帯収入は妻に任せて、わたしは専業主夫と演劇活動をしています。どちらの両親も健在です。
わたしは「批評」なるものを書く際、なるべく「わたし」という色を消したいと思っていました。少なくとも、心のどこかでは。書く「わたし」の存在はなるべく透明のままに、誰が読んでも通じるような、なるべく普遍的な文章を書きたい、という欲望がありました。しかしながら『擬娩』はそのような批評を許してくれませんでした。男であること、女であること、出産経験者であること、そうでないこと、そのような問題を回避することができない…そう思われました。批評文を書くにあたって「わたし」の、性を含むアイデンティティを表記しないわけにはいかなかった。自分のアイデンティティに自覚的にならざるを得なかったのです。
Twitter上で『擬娩』についての感想を見てみると、ほとんどが女性によるものでした(名前やプロフィールなどから判断しているだけなので、正確な調査ではありませんが)。男性がこの芝居について言及することは躊躇われるのでしょうか。気持ちは分かるような気もします。というより、今書いていて実感しています。
演出家・和田ながらの挨拶文には、この芝居が「妊娠をしたことがない人間が妊娠をリハーサルするなら、女だけじゃなくて男も一緒にリハーサルしてみよう」という想いから始まったと書いてあります。しかしここで「男も」と言うとき、女と男が全く同様に、とか平等に、といったことを意味しません。少なくとも観劇した(男の?)わたしにとっては、そのように表れてはきませんでした。むしろここでは等しさよりも、様々な断絶が立ち現れてきたのです。例えばごくごく単純に言えば、男性は妊娠という経験はしえないのだ、その社会的、肉体的苦痛は共有しえないのだという負い目にさらされた感覚を得ました。そんな当たり前のこと、と自分でも思いましたが、お分かりのように、当たり前のことほど無自覚になってしまうものです。そのため、この断絶の経験は自分にとっては非常に重要なものとなりました。
恐らく出産経験者が、その経験に基づいて舞台を構築したらそうはならなかったでしょう。最初から語り手の立場を表明し、他人との差を明確にしてから歩み寄る、といった表現の仕方ももちろん存在します。出産の経験談が語られたら、未経験者はなるほどそんな苦痛があるのか、などと共感したりするでしょう。それもまた非常に重要なことです。しかししたためは必ずしもそういう手法をとっていません。タイトルが『擬娩』ですし、これも当たり前と言えば当たり前ですが、やはり上演されていたのはどうやら出産経験それ自体ではないのです。演劇は、〈経験と未経験のあいだの経験〉とでもいうべきものを促します。したためは、その特殊な経験を顕現させることを通じて、これまで存在したであろう(そしてこれから存在するであろう)無数の出産経験に対して、近づき、遠ざかり、眺め、触れ、撫で、触感や重さを確かめているようでした。まさに演劇=play=遊びです。西村清和が「遊びの中動相」ということを論じていますが、遊びの重要性は、その主体が不明瞭になるところにあります。対象で遊んでいるのか、対象を遊んでいるのか、対象から遊ばれているのか。遊びの主導権が誰に、どこにあるかは必ずしも明確ではないのです 。その主体不明の遊びの仕草を観ることによって、逆説的に出産主体の問題が浮き彫りになったのだと思います(したがって「男も」というのは、出産の対象範囲を広げるために企図されたのではなく、主体を不明瞭にして、より遊びを遊びたらしめるルールだったと言えるのではないでしょうか)。
(やや寄り道のようになりますが、『擬娩』というタイトルからも分かるように、この上演は「出産をめぐる演劇的な習俗」を元に出発しています。言ってみれば、演劇を演劇にしているのです。したためは毎回の作品において、演劇の本質にいつも迫ろうとしているように見えます。演劇というフォーマットに則って何ができるか、ではなく、演劇というフォーマットについてどのように考えることができるのか、それを考えることで何ができるか、とシサクしているのだと思います。そしてわたしはまさにそのシサクこそ演劇の本質ではないかと考える傾向があります…そのため、したための上演にはいつも「共感」してしまいます。)
撮影:守屋友樹
さて、『擬娩』の上演が大きく問題にしていたのは、産んでしまうこと、産んでしまえないこと、自らが産まれてしまうこと、既に産まれてしまっていること、更には男か女としてしか産まれえないことといった、誕生をめぐる「どうしようもなさ」についてだったように思います(もしかしたらこのことを、「からだ」一般の問題と言い換えることができるかもしれません。否応なくやってくるつわりや、生殖器の別、この世に産まれ落ちた瞬間から重力のもとにあるということ——重みをもつということ。何本か舞台のかみしもに渡って張られていたごくごく細いピアノ線に、左右されざるを得ないからだ。からだを持っているわれわれは、そのために様々などうしようもなさを抱えています。からだを有しているということ自体がどうしようもないことです。精神を鍛えれば、からだの問題は克服できるはずだ、という人たちもいます。しかしいくら偉大な哲学者でも、つわりの苦しみを無化したり、ピアノ線をすり抜けたりすることはできないのです…したがってここでわたしが「どうしようもなさ」と言うときには、この「からだ」という事柄をうちに含みこんでいます)。
一般的に、「どうしようもなさ」への応答の仕方はいくつか考えられます。例えばまず「どうしようもないことはどうしようもない」という諦念が挙げられます。この諦念からはおおむね、それを見ないようにするとか、考えないようにするといった態度が導かれるでしょう。誕生や死に関しては、往々にしてこのような態度がとられているように思います。分娩や臨終の現場が、病院に隔離されるようになり、それに接する機会が少なくなったとはよく言われることです。日常的に生/死について考えていたら疲れてしまいますし、一日一日を生きていくためには、考えないようにするというのはかなり常識的な態度です。
次に、「どうしようもないこともどうにかしよう」という理念があります。宗教や科学などがこれに当たるでしょう。死後の世界の創造や、不死についての研究は、まさにこの理念のもとに行われています(あるいは、最近話題の?「反出生主義」なんかも視野に入れなければならないかもしれません…が、これについてはまた別種の思考が必要ですので、いったん置いておきます)。
これら二つの応答は、「どうしようもなさの無化」であると言えます。無化した方が楽に生きていけるというのは間違いありません。しかし、したために見られたのは「どうしようもないことともとことん付き合っていこう」という態度です。わたしには、このどうしようもなさを無化しないことこそ、われわれにとって必要なのではないかと思われました。つまり(急に話題が飛躍するように見えるかもしれませんが)人間とは何か、ということが(技術的に、哲学的に、倫理的etc..に)語りづらくなってきた時代に、それでもなお「人間」への希求が、この「どうしようもなさ」に基づいて初めて可能になるのではないか。したためは、どうしようもなさととことん付き合うことによって、現代に可能な「人間」についての一つのシコウをすすめているのではないか、独自のヒューマニティーズを展開しているのではないか、そう思ったのです。
どうしようもなさそれ自体は上演できません。単純に言って、俳優が舞台上で実際に誕生したり絶命したりすることはできません。しかしどうしようもなさに対していったんアプローチしてみることは可能です。どうしようもなさについての、普遍的な、抽象的な、純粋な、厳密な反復は不可能なので、われわれはそれととことん付き合うために、いったん考えてみる、いったん発話してみる、などという試みを継続する勇気と忍耐が必要になります。そしていったんの原理に非常に適した試みとして「演じてみる」、あるいは「上演してみる」という行為があるのだと思います。あくまで「演」ですので、仮に間違っていても問題はない。しかし決して適当に行われている訳ではない。その場で度毎に生起するしかない遊びなので、間違って聖典になってしまうこともない。恐らくこれは、「どうしようもなさとの戯れ」とでも言うべき事柄なのです。
わたしは『擬娩』の観劇後、妻と出産のことについて話してみました。二人とも出産未経験であるにも関わらず、知識に大きな開きがあることに気づきました。わたしは女性の友人から「妊娠した」、「出産した」と報告をうけたことはありますが、その内実がどのようなものであったのかを詳細に聞いたことはありません。一方妻は出産について友人と色々話しをしているようでした。日常的な会話の中にも、様々な非対称が当たり前のように存在します。あるいはまた恐らく、出産についての同じ情報に触れていても、受け取り方の濃度に大きな隔たりもあったことでしょう。
これはある意味では「どうしようもないこと」です。このことについて「みんな完全に同等に話し、同等に受け取れ」というのは難しいでしょう。もちろん、男女の別に限ったことでもありません。われわれには、いったん話し、それを継続することしかできないのではないでしょうか。
(『擬娩』は、誠実な遊びだったと思います。楽しそうな遊びは、次の人の次の遊びを誘発するでしょう。しかし大人になるにつれ、なかなか自由に遊ぶことが難しくなってきます。多くの留保をつけなければ、様々な迂回をしなければ、上演などについて語ったりして遊んでいくことは難しいかもしれません。しかしその大変さととことん付き合っていくことも、時には必要かもしれません。いったんの試みとして——あるいは括弧の中で。)
撮影:守屋友樹
怪物――宝塚歌劇雪組『ファントム』、突劇金魚『墓場のオサムと機嫌のいい幽霊』、サイトウマコト『たまきはる』、木ノ下歌舞伎(きたまり)『娘道成寺』
上念省三
サイトウマコト『たまきはる』 撮影:井上大志(Leo Labo)
『ポーの一族』(宝塚歌劇花組)ポスター
突劇金魚 #21『墓場のオサムと機嫌のいい幽霊』
2019年11月8日~10日
アイホール
作・演出/サリngROCK
【墓組】
山田まさゆき(突劇金魚)、岩切千穂(狂夏の市場/仏団観音びらき)、川添公二(テノヒラサイズ)、田中良子(ブルーシャトル)、松田ミヤ、小林夢祈(今からひっくり返す)、西原希蓉美(満月動物園)、竹内宏樹(空間 悠々劇的)、河口仁(シアターシンクタンク万化)、西分綾香(劇団壱劇屋)、大路絢か、田口翼(チーム濁流)、井田武志(sunday)
舞台監督/柴田頼克(かすがい創造庫)、舞台美術/サカイヒロト、照明/葛西健一、音響/GxBxC、音響オペ/廣岡美祐、衣装/中西綾香、制作/若旦那家康(コトリ会議/ROPEMAN(41))
2019年11月9日所見
突劇金魚『墓場のオサムと機嫌のいい幽霊』 撮影:松田ミネタカ
「怪物に出会ったことがありますか」「怪物に出会ったらどんな反応を示すでしょうか」と問われても、なかなかリアリティを持って答えにくい。怪物という言葉には、不気味な生き物・ばけものという通常の意味以外に、「理解しがたいほどの不思議な力をもっている人や物、とび抜けた実力や強い影響力・支配力をもつ人物」という意味もある。Sacred Monster(聖なる怪物)なんて、そもそもは19世紀のフランスでサラ・ベルナールのような演劇界の大スターに対して使われ始めた呼称だそうだから、現代の日本なら誰だろう、でもシルヴィ・ギエムとアクラム・カーンの舞台『聖なる怪物たち』を思い出すと、そんな怪物に会えたらうれしい。
近頃観た舞台には怪物が多く登場し、みな悲惨な最期を遂げる。奇怪な容貌で生まれてしまったために忌避され嫌悪される人間。人間の欲望や好奇心によって生み出されたグロテスクな人造人間。嫉妬と恨みのために人間ではなくなってしまう女。
それらは皆追い詰められて殺され、あるいは自ら死を選ぶ。ここではふれないが『ポーの一族』(宝塚歌劇花組、2018年1月)でヴァンパイヤ(吸血鬼。ここではバンパネラ)たちは序盤では村人たちに襲撃され、終盤では惨殺され、その後エドガー(明日海りお あすみ・りお)とアラン(柚香 光 ゆずか・れい)がギムナジウムに生まれ変わるが、その後どうなるか、一応留保されているとはいえ、明るい未来が待っているとは思いにくい。
たいていの場合、彼らを追い詰めるのは、ぼく(たち)だ。いわゆる多数派、いわゆる常識や社会規範の中に生きる人たち、いわゆる普通・正常だと自認している人が、少数派や多少逸脱した人を潰しにかかる。少し怪物のことを考えかけていた頃に観た突劇金魚『墓場のオサムと機嫌のいい幽霊』(骨編・墓編のうち墓編を鑑賞)で、墓場から突き出てくる男(幽霊1、田口翼)が相模原障害者殺人事件(2016年7月)の犯人に擬されていたことは多少唐突のように思われ驚いたが、それについての言及の少なさが逆にこの劇すべてを薄膜のように支配するように思われて、いまだに引っかかっている。あの事件の犯人は障害者を怪物だと思っていたかもしれないし、ぼくたちは犯人を悪い意味での怪物だと思っている(一部の人は英雄視しているのが信じられないのだが)が、実はぼくたち自身が両義において怪物なのかもしれないと、この事件をめぐっては考えさせられたままでいる。犯人が死刑になることでも(2020年3月16日、横浜地裁死刑判決)、その混乱は続いているし、犯人を怪物にしたのも、犯人にとっての怪物も、ぼく(たち)なのだと混乱する。
宝塚歌劇団雪組『ファントム』
2018年11月9日~12月14日
宝塚大劇場
脚本/アーサー・コピット 作詞・作曲/モーリー・イェストン 潤色・演出/中村 一徳
主な出演者/舞咲りん、望海風斗、彩凪翔、彩風咲奈、朝美絢、永久輝せあ、真彩希帆
翻訳/青鹿 宏二 音楽監督/竹内一宏 編曲/西村耕次・鞍富真一・竹内聡 音楽指揮(宝塚大劇場)/佐々田愛一郎 振付/KAZUMI-BOY・鈴懸三由岐・西川卓 ファイティングコーディネーター/渥美博 オリジナル装置デザイン/関谷敏昭 装置/稲生英介 衣装監修/任田幾英 照明/勝柴次朗 音響/切江勝 小道具/北垣綾 映像/Jaijin Chung(EPITAPH.Corp) イリュージョン/北見伸 歌唱指導/彩華千鶴 特殊メイク/田中正史(アトリエ・カオス)
制作・著作/宝塚歌劇団 主催/阪急電鉄株式会社
2018年11月23日所見
サイトウマコトの世界 vol.8『たまきはる』
2019年11月1日~3日
アイホール
構成・演出・振付/サイトウマコト
出演/夏山周久、ヤザキタケシ、原田みのる (Company Little Wisdom)、天野光雄、中田一史、宮原由紀夫、大久保徹哉、佐藤惟、遠藤僚之介、正木悠太
森美香代、藤井泉、本多由佳里、長尾奈美、佐々木麻帆、辻史織、斉藤綾子、中谷仁美、中津文花、米田くるみ (環ジュニアバレエ団)、池田由希子 (環ジュニアバレエ団)
舞台監督/難波まはる、照明/三浦あさ子、音効/金子彰宏、写真・ビデオ撮影/井上大志(Leo Labo)、
振付助手・制作/斉藤綾子
2019年11月2日所見
サイトウマコト『たまきはる』 撮影:井上大志(Leo Labo)
宝塚歌劇団雪組『ファントム』で、マスクを取ったファントム(名前はエリック。望海風斗 のぞみ・ふうと)を見たクリスティーヌ(真彩希帆 まあや・きほ)は、しばらくの逡巡または呆然のあとに悲鳴を上げる。そのことにファントムはもちろん絶望しながらも、止むを得なかったんだ、クリスティーヌはこのことで傷ついただろうな、と思いやり、やさしい歌をうたう。
この場面については、クリスティーナがエリックに、あなたの素顔が見たい、それが2人の、私の真実の愛の証よと、相応の覚悟を持って、どんな醜い奇形でもその素顔を受け入れようと決意した上でやさしく至高のソプラノで歌いかける(実際、真彩の歌声は、天使であり母であり愛する人である、空前の素晴らしいものだったのだ!)にもかかわらず、悲鳴を上げて遁走するとは、なんてひどい女なんだ、意味わからん、と詰る見方が大勢なのだが、ここはクリスティーナの母性と少女性の激しいせめぎ合いの結果、彼女の中で最終的にほとんど不随意にショートしてしまった生理的反応の帰結であって、彼女に理性的な意味で罪はない、とするのが、この物語の流れの中の演劇的真実としては真っ当な解釈だと思われる。真彩の歌のもつ天使性と母性と少女性と愛と恐怖のそれぞれが臨界点に達した時に、恐怖という暗黒がすべてをベタ塗りしてしまうのは、残念ながら当然ではないか。ちなみに、宝塚歌劇でこの『ファントム』は4度目の上演であったが(宙組2004年、花組2006年、花組2011年、今回)、最も説得力のある歌であり、表情・演技であったことは、譲れない。
『墓場のオサムと機嫌のいい幽霊』で少女(岩切千穂)が初めてお面を外したオサム(山田まさゆき)の顔を見た時、少女は絶叫した。その時オサムは怒ってナイフをテーブルに突き立てるものの、徐々に二人は親しくなり、やがて少女はオサムの素顔に笑顔を向けるようになった。このくだりは、この劇でほとんど唯一の至福の時間だったのだが、このまま幸せな2人ということで終わらなかったのは、なぜだろう。
オサムはただの気の弱いひきこもりのむしろやさしい青年だったのに、やっと彼の素顔を受け入れられるようになってくれた少女が男(川添公二)に乱暴されたこと、それを知られた男がオサムを殺そうとして(?)もつれ合う内に、オサムが男を殺してしまったことを境に、表情も声音も変化して凶暴な怪物となり、殺人を重ねることになる。タガが外れたというのだろうか、それまで抑えられていたか意識の端にも上っていなかった自らの不遇、怒り、憎しみが一気に表面化し、すべてに対する復讐の鬼と化す。こういう人格の崩壊と悲惨を反転して形に表すのは、山田まさゆきという端正な好青年が非常に得意とするところだ。
その1週間前に同じアイホールで上演されたダンス公演『たまきはる~サイトウマコトの世界』の第一部はイギリス19世紀の作家メアリー・シェリーの小説『フランケンシュタイン』を基にしていた。フランケンシュタイン(原田みのる)が造り出してしまった怪物(宮原由紀夫)は、生れ落ちてしまった直後に、団欒~幸福な人間関係というものを見る。フランケンシュタインの盲目(と、ここでは設定された)の両親(夏山周久、森美香代)は楽しげに踊っていた。その輪の中に怪物が入るシーンは、美しく切ない。盲目の夫婦が侵入者である怪物の手や身体を探り、すぐに疑うことなく受け入れる姿が貴い。束の間の幸福と愛に満ちた時間、怪物はこの時初めて(そして最後に)愛や温もりを知ったはずだ。しかし、そこにフランケンシュタインの弟(本多由佳里)が現れ、怪物の醜い姿を目にする。弟のゆっくりと崩れるように変化して恐怖にひきつる顔が、無音のうちに激しい悲鳴や驚愕を現わし、続いて使用人たち、そして美しい義妹(池田由希子)にも驚愕と恐怖と嫌悪の顔を向けられ、まさに潮が引くように皆は去り、怪物は孤独に打ちひしがれ、おそらく彼はこの時初めて憎悪と復讐という感情と行為を知り、記憶に刻み、以後それが彼の行動原理になる。
この作品の一つのポイントは、ダンス作品の通例に則り、ダンサーたちが声を出さないことだ。悲鳴や絶叫は表情やしぐさでしか表現されない。ダンサーというものは、顔の筋肉や骨組みまでコントロールするのかと初めてのように驚嘆したが、音なく人の顔が崩れてゆくのは、人間は変わっていないのに外界が音なく溶け出していくようで、世界の崩落に匹敵するほどの衝撃がある。
その後、怪物は客席に背中を向けて、弛緩を伴わない硬直したままの半裸体で痙攣を続ける。その激しさは人の身体を見ていることを忘れさせ、こちらの身体にも痙攣を伝えるほどにおぞましく、引き攣る身体的快感のうちに目を向けると、その怪物はどこまでも美しかった。これは怪物が自らを疎まれ恐怖される醜い存在であると認識し、わが身に刻み込む過程の時間であって、悲しいことにそれが彼のアイデンティティの発現と発見の時間だったわけだ。さらに悲惨なことに、このことで彼は殺人鬼として自己を決定してしまう。彼は自分を恐れ嫌悪し悲鳴を上げる、フランケンシュタインのきょうだいを次々と手にかけることになる。このプロセスは、オサムのそれと非常に似ている。
いつの間にか怪物に感情移入している。復讐の成功に快哉を叫んでいるわけではない。怪物が、幸福で穏やかな時間を手に入れた途端、人々はそれを潰しにかかる。残念なことに怪物はそれを的確な方法で守ることはできない。加害しようとする人々への抵抗を通り越した復讐に歯止めがかかるどころか、エスカレートしていく。そのことがつらく悲しい。
『ファントム』でエリックが自らの醜さを知るのは幼年時代のこと。幼いエリック(彩海せら あやみ・せら)はある日水面に映った自分の顔を見て化け物かと思い、何度も見直しては腰を抜かしてしまう。それ以後父の作った仮面で自らの顔を覆うようになり、それがファントムと呼ばれるようになる所以である。彼にはその素顔を美しいと愛してくれる母ベラドーヴァ(朝月希和 あさづき・きわ)がいたことが救いであった。しかしそれがコンプレックスとしてクリスティーナに逆照射されて彼女の母性を引き出し、破局を導くことになったのかもしれない。その意味ではベラドーヴァをクリスティーナと二役にしたほうが効果的だったかもしれない。
彼の犯した殺人は、オペラの主役に抜擢したクリスティーナを騙して声を出せなくしたカルロッタ(舞咲りん まいさきりん。劇場主の妻でオペラ歌手)に対する復讐として実行された。動機はクリスティーナへの思いとして納得できるとはいうものの、殺害に至る経過は、言葉で追い詰めた末に殺害するというもので、仰々しく芝居じみていて、残虐だ。
このアーサー・コピットによる『ファントム』は、ガストン・ルルーの原作を同じくしたアンドルー・ロイド・ウェバーによるミュージカル『オペラ座の怪人』(1986年)に比べて、エリックの怪物ぶりは影を潜め、母の愛、父と子の繋がりに焦点を当てているといわれている。残虐なファントムとのギャップは拭えないものの、2つの面のコントラストを強調することで、ある種のやりきれなさを表に出したかったのだろうか。
とはいえ、怪物が絡む殺害の場面は、様々だ。オサムが男、警官、きょうだいらを次々と手にかける場面は、おおむね残虐だ。最後にオサムは母(田中良子、美しい)と妹(松田ミヤ)に乱暴され、瀕死の状態となる。母は自分からこんな醜いものが出てきたことが我慢ならない。何度も意識を失い、また息を吹き返すが、母は執拗にオサムの息の根を止めようとする。また生き返ったのだか、死後の霊魂になってだか、最後にオサムは自ら棺桶に入り、舞台にはオサムのものであろう葬列が現れる。
突劇金魚『墓場のオサムと機嫌のいい幽霊』 撮影:松田ミネタカ
■上念省三(じょうねん・しょうぞう) 明石市生まれ、神戸育ち。1991年ごろから芸術全般の評論活動を始める。「JAMCi」「PAN PRESS」「劇の宇宙」「京都新聞」「現代詩手帖」「ダンサート」「バレエ」「宝塚アカデミア」「イマージュ」「シアターアーツ」等に寄稿
『ファントム』のエリックが殺される場面では、警部が部下に「生け捕りにしろ!」と命じる言葉に、父キャリエール(彩風咲奈 あやかぜ・さきな)が全身で反応するのが、二重三重に衝撃的だ。その最期は、宝塚らしくクリスティーナやキャリエールの腕の中で迎えることになるが、彼女に対しても、そして父キャリエールに対しても、もう少し何とかエリックをうまく導くことができなかったのかと、劇と現実を混同させてしまって悔いが残る。
演劇での殺害はおおむねリアルに殴る、刺す、絞める、撃つといった行為を重ねることで強調されるが、『たまきはる』の怪物は、首に手をかけて大きく持ち上げる形で殺害を完了させる。そこに残虐やグロテスクはなく、身体の強い緊張と直線的な美しさだけが出来事の名残のように、ある。怪物がフランケンシュタインの義妹を手にかけた後のフランケンシュタインの声のない絶叫、そして死んでしまった義妹とフランケンシュタインのデュエットの美しさは、義妹の池田が動かずに人形のような美しさを湛えていること、フランケンシュタインの原田がデスペレートなほどに鋭く動くことによって、生と非-生のコントラストが生まれ、それは凄絶で残虐な冷たさを感じさせる。このダンスの後、原田は声を出して泣いていたような記憶がある。
美しさといえば、実は『たまきはる』の怪物、宮原は、見た目に美しい。エリックやオサムのように、醜い素顔を隠すためのマスクを着けてはいない。美男子だ。醜さ・おぞましさにではなく、この世ならぬ美しさに驚愕したのではないかと思われるほどだ。美とグロテスク、聖と醜が交わる地点にある、見てはならないものとしての、怪物……彼の最期はわからない。原作では自ら死ぬために海へと消え、その最期を見届けたものはいないということになっている。この舞台のエピローグは、プロローグに照応する形で、部屋で倒れたフランケンシュタインに怪物が上着をかける……というところで終わっている。この作品のすさまじいところは、フランケンシュタインの懊悩、悲しみと斃死が明確に描かれているところだ。終わったように見えても、怪物がどうなったのかはわからない。舞台上の時間も終わったというのは正確ではなくて、この後クローン人間を扱ったカズオ・イシグロ『わたしを離さないで』をモチーフにした第二部、そしてダンサーすべてが向こう側の世界の者として次々に吹雪の中を踊りまくる第三部『岸辺と森と彼の棲む小屋』へと続いていく。第三部は、シェリーとイシグロが生み出したすべての者へのレクイエムのようで、戦慄的に美しい。
サイトウマコト『たまきはる』 撮影:井上大志(Leo Labo)
撮影:井上嘉和 (2019年12月京都芸術劇場 春秋座 提供:京都芸術大学 舞台芸術研究センター)
『娘道成寺』
2019年12月7日~8日
京都芸術劇場 春秋座 特設客席
監修/木ノ下裕一
演出・振付・出演/きたまり[KIKIKIKIKIKI]
長唄 唄/杵屋東成、芳村伊四太郎、今藤小希郎、杵屋佐喜之
三味線/杵屋勝禄、杵屋禄宣、杵屋禄亮、稀音家淳也
囃子/望月太明藏、望月太明吉、望月太明十郎、望月太八一郎、藤舎艘秀
笛/藤舎伝生
舞台美術/杉原邦生[KUNIO]、照明/吉本有輝子、音響/大久保歩、衣装/大野知英、舞台監督/大田和司、舞台監督補佐/大鹿展明、演出部/山道弥栄、振付アシスタント/斉藤綾子、宣伝写真/東直子、宣伝美術/外山央、制作/本郷麻衣
2019年12月7日所見
三様の「怪物」を見てきたが、さて、怪物はそもそも男性ばかりなのだろうか。魔性(ましょう・ませい)は女、化けて出るのも女が多いが、怪物と言われると、グロテスクで大きなものというイメージがあるせいか、男であることが多いのかもしれない。だから、『娘道成寺』を怪物の物語とするには、抵抗を感じる人もいるだろう。しかし、ここまでのコンテクストで理解してくれるかもしれないが、そもそも清姫を蛇体という怪物にしてしまったのは安珍であり、安珍を守ろうとした多くの人々、つまりぼくたちだったのだ。
そして何年もの後、清姫の化身とされる花子は再び蛇体となり、最後は鐘に巻き付いて見得をする。この後、どうなるのか(僧侶の祈祷による「押し戻し」まで上演することもあるらしいが)。どう考えてもそこから遁れるすべはなく、清姫と同じ末路をたどることになるとしか思えない。清姫を、花子を日高川に流すのはぼくたちだ(そう思うことでぼくは免罪符を得ようとしているのかもしれないが)。
シモ手に囃子と笛、カミ手に三味線と唄を配して中央を空けた舞台上舞台で、床に敷かれていた紅白幕が途中で引き上げられて後ろ幕に、さらに開放されるという、シンプルだけれども凝った舞台空間。歌舞伎舞踊のようなしつらえも衣裳も花笠もなく、小柄なきたまりがほぼ身体一つで立ち向かう『娘道成寺』だ。
この元の歌舞伎舞踊には、様々な姿の娘が現れる。一人の娘の異なる姿であれ、多くの娘の複合体であれ、その複相を一つに収斂していく方向と、個別に拡散させていく方向の二つの力が、舞い手の身体の上か中かで大きく作用する演目だと思っている。
きたまりの花子からは、野性が感じられた。貫頭衣のような衣裳が少し古代を思わせたし、ぴょんぴょん跳ねる姿からはパックのような奔放さが見られたし、動き自体のトメ、ハライ、静止の形の美しさが自然の造物のようだった。
きたから感じた野性のもう一つの源は、視線の鋭さ、表情の強さだった。『京鹿子娘道成寺』のDVDで観る坂東玉三郎の花子よりも、ずっと表情が多様だったように思う。逆に言えば、玉三郎の舞は極限まで表情を抑えたものだったというべきか。しかしその表情は、素朴に町娘が戯れているような幸福なものではなく、恨みを通して邪眼につながるような眼ざしをもつものだった。殊に記憶に残っているのは、「山づくし」の後半あたりのどろどろしたような強い目つきだ。当日パンフレットに木ノ下裕一が書き付けた「安珍を追いかけて山道をひた走る清姫の残影がオーバーラップします」という解説が腑に落ちるが、ただ腑に落ちるというのでは済まない。それは客席の一人ひとりに鋭く向けられた情念の刃であり、刻々と過ぎてゆく舞台の時間の中で、長い転生と輪廻の時間の中で、ただ過ぎてゆく者としての呆然とした思いが結露したような顔つきだったと、これは思い入れが過ぎただろうか。
2008年の初演以来、様々に変化してきた木ノ下歌舞伎-きたまりの娘道成寺が、ここに長唄の生演奏版として新生したことは、400年になんなんとする歌舞伎舞踊の上演史に通底する音や様式と、きたまりの身体の歴史がクロスする地点から、何ものにも抑えきることができない身体の野性のほとばしりがあらわになったということだった。
きたは、自らの身体を、異なる流れの上にある時間に乗せることに情熱を傾けているように見える。マーラーも、嵯峨大念佛狂言の囃子も。そのことが快楽なのか、身を引き裂かれるようなことなのかは知らないが、逃れられないところに来てしまっているという感覚はあるだろう。
娘道成寺の全体を、野性の発露と捉えてみれば、その脈絡の細さも、奔放な町娘ぶりも生命の発現として理解できる。しかし、やはり怪物の末路はいずれも同じというべきか、徐々に濃い影に覆われ、野性が理性だか知性だか、因習だか秩序だかに侵犯されていくのが、「よーいよーい ありゃりゃこりゃりゃ」という素朴な囃しに暗く固まってしまっている姿から見て取れる。照明が暗さを増し、囃子も長唄も闇に溶けたかと思うと、紅白の幕が上がり……と、舞台の展開が急を告げてドラマティックに加速する。フットライトにまぶしく照らされる中でこぶしを握り顫えていたのは、何に対してだったのだろう。歌舞伎舞踊の鐘に巻き付いた美しい見得ではなく、影そのものになり、一瞬前から光が当たったかと思えたが、ドンと落ちる。
撮影:井上嘉和 (2019年12月京都芸術劇場 春秋座 提供:京都芸術大学 舞台芸術研究センター)
ぼくたちは怪物を怖れながら集団で追い詰め、すりつぶしてしまう存在であり、同時に怪物としてすりつぶされる存在だ。それらは本当に奇怪な容貌をしていたのだろうか。本当に存在していたのだろうか。本当にそれが、誰かを焼き殺したり絞め殺したりしてしまったのだろうか。そのような惨劇を架空することで、ぼくたちは何かから目を逸らしたり、重大なことをなかったことにできるような気持ちでいるのではないのか。今も、誰の目にも見えない、全貌を把握どころか断片を垣間見ることすらできていない現象に全世界が恐懼している状態だが、ぼくたちはわけのわからないままそれを怖れ、何かを見つけては誰かを批判したり詰ったりする。ぼくたちは怪物を造り出す。怪物に捕らわれている。怪物になっている。やがてすりつぶされる。
撮影:井上嘉和 (2019年12月京都芸術劇場 春秋座 提供:京都芸術大学 舞台芸術研究センター)
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ペシミズムの向こう岸で――庄波希+新宅加奈子『raw』、プロトテアトル『X X』、Co.edge『漂う霧の影』
上念省三
1月から3月までに見た3組の若手による演劇、ダンスを振り返ろうとしている。この月日は、世界が新型コロナウィルスという目に見えないものにおびえ、「自粛」を続ける100日間だった。その状態は今も続いている。この濃灰色の世界の空気は、しかし、今に始まったものではないようにも思う。若者たちは、この空気を、どのように捉えているのか、気になる。
傾向をとらえようとか、流れをつかもうとか、要するに作品を演劇史や舞踊史に位置づけようとすることを、ぼくは極力避けてきている。こちらのマッピングに作品や創作者を束ねて当てはめていくのが生理的に合わないからだ。もちろんそういうことが苦手でもある。でも、右肩上がりの社会背景の中で青春時代を送ったぼくたちと、ゼロ成長のデフレ時代に青春を送っている今の若い人たちで、世界の見方が違っているのは当然だ。若者はどんな時代もだいたいペシミスティックだと思っているが、それは今から振り返れば、希望や可能性に満ちているからのことであって、今の若者はペシミズムを装うことなどできるのだろうか。
近畿大学の「世界舞踊史B」という授業で、20世紀以後のいろいろなダンスを観てきて、最後に学生に「現在の日本の状況を踏まえて、どんなダンス作品をつくりたいか」という題でレポートを書いてもらったことがある。プロジェクションマッピングなどのメディアを使った作品、高齢者対象や教育の場での課題解決型のダンス、「かわいい」を踏まえてアニメの聖地でのパフォーマンス、Boys Dance Tooをはじめとしたジェンダー問題を踏まえた古典バレエのリメイク、日韓関係をシンボリックに取り上げる、セクハラ・パワハラや政治家の汚職を戯画的に取り上げる、政治や歴史のメッセージ性のないもの、と様々な論点、スタンスの意見があり、学生を一方向に誘導しないいい授業だったんだなと苦笑したが、中に男子学生の「こんな先の見えない時代だから、人生への希望を共有できるような作品にしたい」という意見があって、彼のそんな作品を見たいと思った。
若い人たちは現在と未来をどのように捉えているのか。どのように、希望を見ようとしているのだろうか。彼らの未来をほんの少ししか見ることができない、老いつつある者には、気になってならない。
庄波希+新宅加奈子『raw』 撮影:松田ミネタカ
演出・振付 / 庄 波希
空間美術 / 新宅 加奈子
2020年1月9日~12日
京都芸術センター講堂
出演:井場美穂 黒田健太 児玉泰地 小堀愛永
庄波希 新宅加奈子
友情出演:日置あつし Daniel
ドラマトゥルク/ハルヒ
テクニカルチーフ/杉本 奈月
ステージマネージャー/川上 真
広報/松村 歩美
製作/HIxTO
■庄 波希+新宅加奈子『raw』~精神と肉体の展覧会
「raw」、生々しさとでも言っておこうか。それを身体の存在や表現であらわにしようとする。一方は身体が動くことで、いわゆるダンスと言われる。一方は、全身に絵の具を纏うことで、ボディペインティングと呼んでいいのだろうか。身体はそもそも生々しさの基点であり、その始まりも終わりすらも生々しいはずなのに。この世界ではいくつもの層に蔽われている。
開場時から、講堂の中央に縦長に設置されたランウェイのような舞台のほぼ中央に、空間美術家の新宅加奈子が全裸で絵具まみれで座り、時折足下の塗料缶から絵具を自身にかけている。ところどころ素肌も見えているし、胸のふくらみや太ももも露わだ。開演前は撮影可能とされていたので、やたらにカメラを向けている男がいて、いらつく。そのどうにも言い訳しようのない猥褻な視線と態度の存在が、否応なくぼくをも共犯者に巻き込んでしまうようで、とても不愉快だ。その男は、自分の欲望か好奇心の生々しさをストレートに露わにしている。ぼくにはそんなことはできない。しかしその生々しさがぼくの何かを浸蝕してくる。
この強烈な生の身体の存在によって、危惧されたのは、ダンスが背景化してしまうことだった。これに、動く身体は匹敵できるのか。あるいは、匹敵というのではない別の形での共存が可能か。
チラシには、主宰で演出・振付の庄波希が癌で入院していたと書かれている。庄の病いについて思いをめぐらすと、新宅の絵具にまみれた身体がはちきれるように生命感豊かなものに見えてくる。チラシには、「家庭環境が原因で裸になって絵の具を纏うまで生きていることを知らなかった」という新宅の言葉が紹介されている。そこから眺めると、動く身体がとても健康で溌溂としているように思われる。
修道士のような黒衣の人々が現れ、のたうつように動いたり女(小堀愛永)を傾けたりする。庄が新宅や椅子に触れ、絵具を掻き剥がす。一連の動きや配置は何かの宗教の儀式のようだ。ランウェイを歩いている中の一人が倒れても、他の者は冷淡だ。変な歩き方をしたり側転したりする者が出てくるのが、過剰だ。新宅を核にしてはいるが、彼女は神のように支配・君臨して定位しているわけではなく、他のダンサーたちは並置されているし、動きや位置といったいろいろなモチーフは不安的に宙ぶらりんになっているようだ。
暗転のあと、映像が流れ、暗いランウェイで庄が強い緊張感を帯びて激しく動くのが印象的だったが、それ以後の各所で展開する動きとの関連性が見つけられない。時間自体が断裂しているのか、孤立しているのかとも思われたが、やがて動くことそのものが何ものかの喩であるようにも思えてくる。
その後新宅の座っていた椅子から庄がブレスレットのようなものを取り出し、腕につけて振り回して叫ぶのも、生命の発露という現象を表わすものだったのだろうか。そして最後には蛍光管がエクスカリバーの剣のように取り出されて神話的な色が濃くなり、全員が新宅に触れて絵具に染まる。
椅子に座ったまま位置を変えない新宅と、その周囲をほとんど意味が辿れないような動きを続ける7人の男女。そのコントラストは生という世界の中で際立つものだが、その背後に双方の消失という事態が潜んでいることを予感させるのが、新宅の存在だったように思う。裸の状態から絵の具を纏うことは、衣裳を身に着けることとは別種の「覆う」行為だが、新たな皮膚=表面を生成することでもある。表面でもある皮膚は、身体の内側と外側を隔てる薄膜であり、外側でも内側でもある。さっきまで外側だった絵の具が、皮膚になる。内側は生命体だが、外側は違う。新宅の内側のみが生命、生の生々しさ、rawであったと考えれば、外側のすべては生ではなかった。そしてその外側と認識される境界は、どんどん内側を浸蝕する。
また、他者同士の身体が絡み合うことは、皮膚を共有することであり、生命の共有のように見えるが、それは束の間のことだ。
庄波希+新宅加奈子『raw』 撮影:松田ミネタカ
庄や新宅が何を考えていたのかは、ぼくの外側のことだから、わからない。でも、もしぼくが新宅だったらと想像すると、全裸で人前に身を晒し、暴力的に猥褻な視線とカメラに侵され、絵の具という粘り気のある液体を皮膚に纏うことが、どのような時間であったかを、痛覚を以て想像することができる。それが庄の罹病体験や新宅の過去を通じて共有され、他のダンサーにも伝播することが想像できる。ぼくたちは、生々しさを共有できることでしかつながれない。その発火点として身体は置かれていて、他のダンサーは動くことで痛覚を共有し、かろうじてその意味と重みを受け止められていたのだろう。それが観る者にも共有できる装置として、この舞台の空間と時間が存在した。
1月12日16:30の回の所見。この日新型コロナウイルス国内感染者数ゼロ。
『X X』
撮影:河西沙織(劇団壱劇屋)
作・演出: FO ペレイラ宏一朗
2020年2月14日~2月16日
神戸アートビレッジセンター
出演
小島翔太 / 豊島祐貴
宇垣サグ(聖なる犬殺し)/大形駿也(ハコボレ)/岡田望/ガトータケヒロ(シイナナ)/香川由依/たろう(PROJECTおふざけチャン。)/鶴隹(演劇研究会はちの巣座)/友井田亮 /ナカメキョウコ(エイチエムピー・シアターカンパニー)/浜田渉/片彩眞璃(シバイシマイ)/吉田凪詐(聖なる犬殺し)
演出助手: 有川水紀、皆都いづみ(シイナナ)
ドラマトゥルク: 呉光倩
舞台監督: 西野真梨子
美術: 松本謙一郎
音響: 廣岡美祐
照明: 幸野英哲(PAC west inc.)
広報: 若旦那家康(コトリ会議)
当日運営: (同)尾崎商店
宣伝美術: Mock Mop's
制作: プロトテアトル
■プロトテアトル第9回本公演『X X』
プロトテアトルとは、試作演劇。印象に残っているのは改訂再演の『レディカンヴァセイション』(2019年6月、芸術創造館)という、大地震のためビルに生き埋めになった極限状態の人たちの会話劇で、閉鎖空間でのシチュエーション・コメディとして、とても面白かった。
今回の『X X』(ダブルエックス)は、それとはまったく違って、静かで日常的で、よく耳を澄ましておかないとわからない。客席を組まず平たいアクティングエリアの周囲に観客が一重に座っている。奥に座っていると会場スタッフから「ここ自転車が通りますので、お荷物は足下に…」と言われる。これは楽しみだ、とワクワクする。テーブルやベンチが散在していて、烏のような黒衣の人物がわらわらと現われる。
奥からだと、入口付近の公園のベンチのほうで交わされる会話はあまりよく聞こえない。複数の場所で会話が同時に交わされていることもあり、よく聞き取れない。その程度のボリュームの発声で全体が進められる。逆に交番や外村(豊島祐貴、地元の高校生)の部屋の様子はよくわかる。座った位置によって、芝居の見え方がかなり変わってくるのだ。ぼくの座った位置からだと、公園のベンチで座っている男と、彼に絡む出来事は、遠くの物語として受け取られた。向こう側の観客からは、外村の部屋や最近この街に越してきた佐藤家での出来事は、遠い。その遠近感の差異が、この作品を世界の上空に薄膜のように広がる危ういものとして成立させているように思う。
高校生たちの進路についての他愛ない会話の中から、外村の母親が入院していて、そのせいで大学進学をあきらめようとしていること、それを女友だちの村瀬(香川由依)に言いそびれていたこと、誰が成績がよくて誰がちょっと不良っぽいとか、様々なことが断片的に少しずつわかってくる。
少しずつというのが、この作品の魅力であり、じれったいところだ。この世界、神開町という架空の町だと台本には書かれているのだが、劇の中でその町の名が示されたことがあっただろうか……、ともかく、この町では公園、駄菓子屋、交番、佐藤家、外村家と様々な場所で、数え上げればいろいろなことが起きているようだ。作者自身プログラムに「細かい情報量の多さは、もしかすると長編作品3本分ぐらいあるかもしれません」と書いている通りだろう。
公園の男をめぐることだけでも、そうだ。彼は烏と話すことができると噂されている。不良っぽい高校生二人がその男をからかい、襲撃しようとする。佐藤家の娘めぐみ(鶴隹)はどうも学校でハブられているらしいが、男のところにパンを届けに行っていて、彼の前では心を開いて話ができるらしい。驚くべきことに、どうもその男は外村の父親らしい。そして大きな事件に巻き込まれるのだが……と、最後までジグソーパズルの一片一片を見せられているようで、全貌はよく見えてこない。とても静かに時間が流れ、ぽつりぽつりと何かが起こり、カラスがごみを漁っているという景色だが、本当は起きているのは小さなことではない。大変なことがほのめかされながら、劇はカットアウトされてしまう。
撮影:河西沙織(劇団壱劇屋)
しかし、何が起きたかを列挙することが、この劇の核や本質を明らかにすることではないように思われる。この劇の魅力は、ペレイラが世界をどのように捉え、再配置し、語り伝えようとしているのか、その手つきにある。それは、日常という淡々とした当たり前の時間の流れへの愛惜のような眼ざしかもしれない。日常の中で事件は淡々となんの前触れもなく起きるだろう。その一つひとつにきっちりと驚きながら、過去を含めて淡々と受け止めているふうな外村を好演している豊島、その友人でそんな外村を不器用に見守る内村を地のように自然に演じる小島翔太、2人の劇団員がそんなペレイラの手つきを的確に現実化/演劇化しているのがいい。
とても共有し、共感しやすい世界であるのは、その言葉の発し方の温度の低さ、熱量の小ささによるものではないだろうか。そのことがこの劇の世界への入りやすさと、終わった後も引きずられる持続力の強さとなっている。会話の被せかたは青年団のようだし、脈絡を説明しない事件の起こし方は桃園会のようだと言えなくもない。そういう意味ではよく勉強しているし(あるいは、それらが強く現在的であるということか)、確かに「プロトテアトル」であるのかもしれないが、習作と呼ぶには世界が明確で、人物それぞれの切なさがきつく尾を引く。観客に預けた「続き」が大きく重すぎる。しかし彼らにはそれを共に背負って行ってくれる覚悟があるように思う。
2月14日19:00の回の所見。この日の新型コロナウイルス国内感染者数41人。
Co.edge『漂う霧の影』
撮影:結和
Co.edge「漂う霧の影」
2020年3月24・25日
大阪市立芸術創造館
出演:天野光雄、中津文花、中谷仁美、正木悠太
おどらぼ芸術祭2020 Aプログラム
■Co.edge『漂う霧の影』
4人のダンサーは、サイトウマコトの世界 vol.6『廃の市 ほろびのまち』(2017年11月、アイホール)以後、サイトウ作品で舞台を共にしている。天野光雄はジャズダンスをルーツとし、正木悠太は大学でコンテンポラリーダンスを始めたのではなかったか。中谷仁美と中津文花はバレエダンサーで、二人ともニューヨークのジョフリー・バレエ・スクールに留学していたようなので、共通のベースを持っているのかもしれない。それにしても、なかなか出会いそうにない4人による舞台だと言えるだろう。
ダンスのルーツが異なっていることで違和感や不自然さがあったわけではない。差異を強調するための作品ではなく、身体を動かす方法の違いが、溶融してしまうような何か。あるレベル以上になると、一つの構成・演出に対して、運動する身体をどう処していくか、差がなくなっていくのだろうか。少なくとも一見、それほどには強い物語や切迫した設定がしつらえられているわけでもないように思えたのだが。
まず客席が明るい状態から、天野が倒れる。倒れている状況が続く。彼の足下にとても細かい砂のようなものが落ちていく。……そのようにして始まったこの公演の前半は、正木と中谷の身体の組み合わせの面白さから、男女が相手を求め失った後の喪失感の形象化に移行していくのが、低温の緊張感の中にゆっくりと流れていたように思えた。次に現れた中津は、内向きに絞り上げるような動きを見せ、動きがドラマを伴わせている。動きが反復していることに気づき、2018年12月にアバンギルドで上演された「悪魔の踊り」(FOuR DANCERS vol.100の中の、きたまり作品)を思い出させたが、途中で軽快な音楽が入っても動きのトーンは変わらないのがいい。中津の動きで興味深かったのは、彼女自身の腕を他者さらには敵のように見ているような表情があったことだ。身体に対する違和感や敵対感をさりげなく見せていたのがいい。
天野と正木、男性同士のコンタクトは、やはりダイナミックで激しい。手を握りつながっているのに、目は合わせていないのが寂寞を感じさせる。そこに風と波の音が入り、中谷が蹌踉と歩き始めるのが、寂寞に輪をかけているようだ。男たちの相手に滑り込むような激しいコンタクトは続いており、女たちは同じ動きで何かをつかもうとしたり転がったりしている。男と女はバラバラなことをしているが、徐々にゆるやかな音楽とともに、穏やかな空気に満たされている。
この作品は構築しようとしている世界の形容詞や副詞を明確にするものでもないし、特定の感情や物語を定着された形で見せようとしているわけでもないようだ。この舞台上に明示されていたのは、関係が存在するという事態と、温度だったといっていいだろう。
もう少し丁寧にほぐさねばならないと思うが、4人の関係がそれぞれ仔細に描写されていたとは言い難い。もしそうならそこには物語が発現していたということなのだから、その関係をたどり、さかのぼり、ときほぐすことで、ここの存在の源にたどり着くことができ、そこから何ごとかが生まれてくることを期待することができるが、4人は切実にそれを希求しているのに、決して物語を読むことがない。人と人との間、男女でも同性でもいいが、関係が構築されるということには、ほぼ絶望した後の縁から始められたような世界。その世界/作品の時間の涯てに、かすかに穏やかな明るさを置いたことを、果たして希望と呼べるのだろうか。慰藉でしかないと言えるだろうか。ぼくは彼らと共に、そのかそけさに縋りつきたい。
3月24日19:00の回の所見。この日の新型コロナウイルス国内感染者数1,211人。
Co.edge『漂う霧の影』
撮影:結和
この稿を書き終えようとしている3月31日、新型コロナウイルス国内感染者数1,987人。世界の感染者数は719,700人。宮藤官九郎が罹患したというニュースも入ってきた。先は見えない。何かを象徴しているような事態だが、象徴しているのは現実ではなくフィクションのほうであるはずだ(った)。……こういう言葉は陳腐だ。詩人は「何ひとつ書く事はない」と書いた後に、「私の肉体は陽にさらされている/私の妻は美しい/私の子供たちは健康だ」と続けた*。これは諦念か、韜晦か、埋没か、希望か。
*谷川俊太郎「鳥羽 I」から。(詩画集『旅』1968年、求龍堂所収)
「生きづらさ」に応答する――「キビるフェス2020 福岡舞台芸術祭」を見て
須川 渡
■ 須川渡(すがわ・わたる)福岡女学院大学講師/演劇研究。2018年より福岡在住。戦後日本の地域演劇について調査を続けている。
関西から福岡に移り住んで2年が経った。近年の移動性(モビリティ)の優位について頭では理解しているつもりでも、新しく拠点となった福岡からは、そうやすやすと移動できない。関西の演劇からは少しずつ心理的な距離が生まれ、ひとつの場所にとどまって演劇を見続けることの難しさを感じている。同時に、どこの地域にもコミュニティに根差した作り手と観客がいるが、いまだに福岡からどのように演劇をまなざすことができるのか、まだ十分に分からないでいる。
2月は福岡で多くの芝居を観た。そして、新型コロナウィルスの影響により、福岡でも多くの公演が中止や延期を余儀なくされた。2月28日、北九州芸術劇場が投稿したツイート(https://twitter.com/kicpac/status/1233267432455753728)からも分かる通り、公演の継続も中止も、運営する劇場や劇団にとっては苦渋の決断だ。北九州芸術劇場によるクリエイションシリーズ『まつわる紐、ほどけば風』(2/27, 北九州芸術劇場)も初日を除いてすべて休演となってしまった。劇場が本来の形を取り戻すにはまだ時間がかかる。
福岡市文化芸術振興財団の主催による「キビるフェス」は2月8日から3月1日にかけて福岡市内で行われた小劇場を中心としたフェスティバルだ。今年で3年目を迎えるこのプログラムは、福岡・九州だけでなく、東京・関西から5団体が招かれた。「キビる」とは福岡の方言で「結ぶ」「つなぐ」という意味。福岡からみる地域演劇のアングルは関西のそれとは幾分異なって見える。振り返ってみれば、2月は劇作品に描かれた生きづらさが、新型コロナウィルスによって演劇人自身の生きづらさへ移行するのを皮肉にも見届ける形になってしまった。キビるフェスは感染症対策を行ったうえで、全演目を実施することができた。5演目を振り返りながら、この一か月の様子を記しておきたい。
劇団きらら『70点ダイアリーズ』
撮影:藤本 彦
トップバッターを務める劇団きららは熊本の劇団。『70点ダイアリーズ』(2/8-9, ゆめアール大橋)で興味深かったのは、東京へのまなざしだった。舞台は熊本の代行運転業者。登場人物のただし(磯田渉)は仕事のプレッシャーから緘黙(かんもく)となってしまい休職を余儀なくされてしまう。彼が雇われた運転代行業者には、世代もばらばらな人々が集まってくる。登場人物のほとんどは、一度は東京のような都会に夢を抱きながらもUターンして戻ってきた。「とーきょーとか、がいこくーとかに行かなくても、ここにいて幸せだったらいいじゃん、ですよ」と言うまめこ(なかむらさち)の台詞は、熊本からみた他地域へのまなざしそのものとも受け取れる。タイトルが示す通り、彼らは満点とは言えない、世間的に見れば負け組といわれる境遇の人々だ。しかし、作・演出の池田美樹は彼らの生き方をあたたかく肯定する。
例えば、パートナーを追いかけて東北から熊本にやってきた40代の男・佐羽根誠(菅野貴夫)は、彼女と別れてしまった後、偶然代行運転業者の千夏(オニムラルミ)に出会い、車内で心の内を打ち明ける。「あるある。しょんなかよね(熊本弁で「仕方がない」)」という千夏の相槌は、諦めというよりは彼女なりの心遣いだろう。似たような境遇を抱えた人々は、互いになぐさめ、励まし合う。陽の当たらないひなびた代行運転業者は、この作品において、社会におけるセーフティネットとして機能している。
心にある種のわだかまりを抱えた人が集う場という意味では、『愛のえんえん』(2/22-24, ゆめアール大橋)も同じような問題意識を持っている。ブルーエゴナクは北九州を拠点とする劇団である。この作品は、豪雨によって開かれた小さな街の避難所が舞台となる。銀マットにラジカセ、マイクスタンドという簡素な舞台で、ムック(野村明里)とそのパートナーの西瓜(出光真侑)、娘(小関鈴音)とその母・豊秋(溝口竜野)のすれ違いを描く。ムックと西瓜は海で離ればなれとなり、会えないでいる。娘と豊秋は同じ避難所に現れるが、互いに出会って言葉を交わすことはない。話が進むにつれ、ムックと豊秋は、実はこの世にいないことが暗に示される。この作品において「避難所」は字義通りの災害という意味だけでなく、生者と死者、それぞれが思い残しを抱えて避難する場所となっている。前作では、『ロミオとジュリエット』を死者の視点から改作したが、生者と死者の隔たりに焦点をあてた今作もまた、そのアプローチを延長したものといえる。舞台に設えられたラジカセは生者/死者、過去/現在の隔たりを決定的にする。
しかし、この作品ではそれぞれの分断よりも、どのように人々が融和できるかに重きが置かれていた。たびたび登場するカードゲームはその場に居合わせた人々のわだかまりを解消する。また、対面式で語り掛ける導入部や、死者の豊秋が客席後方から声を発する演出からは、登場人物だけでなく、舞台と客席の境界線そのものも解きほぐそうと試みていることが分かる。長年話すことのなかった娘が母親を受け入れ、西瓜とムックの他愛もないお喋りがラジカセで再生される場面からは、おのおのが忘れない限り、喪失は訪れないことを示しているようにも思えた。
ブルーエゴナク
『愛のえんえん』
『Pamliya(パミリヤ)』(2/22-24, パピオービールーム)は、京都を拠点にする村川拓也が、福岡で介護施設に関わる30名にリサーチをして生まれた作品である。村川はこれまでも『ツァイトゲーバー』(2011)や『インディペンデント・リビング』(2017)で介護士と介護される側の関係を作品にしている。今回は実際に福岡で介護士として働くフィリピン人のジェッサさんが出演する。この作品は、ドラマトゥルクの長津結一郎製作による公演パンフレットが充実しており、制作のプロセスを詳細に追うことができる。パンフレットによれば、この企画は2019年1月に立ち上げられた。外国人介護人材に関するシンポジウムや、福岡の障害者福祉施設へのヒアリングから始まり、そのリサーチにおいて、実際に福祉の現場で働くジェッサさんに出演を承諾してもらったという。稽古開始は公演のおよそ三カ月前になる12月4日。このことからも、村川がいかに稽古に入る前のリサーチに入念に時間をかけていたかが分かる。
開演冒頭、村川が登場し客席から一人介護者となる出演者を募り、上演は始まる。ジェッサさんが、介護者の「エトウさん」を、介護する一日が淡々と再現される。エトウさんに話しかける際の「娘さんが来たと。良かったね」「手ば汚ねー」といったジェッサさんの福岡弁が耳に残った。故郷の家族の姿をエトウさんに見ていると同時に、彼女にとって福岡の言葉は介護者と親密になるための生きる術ではないだろうか。劇中では、ただ介護の日常を再現するだけでなく、彼女の故郷であるセブ島のことが語られる。EPA(経済連携協定)によって2016年に日本にやってきたこと。日本で働いていたため、自分の祖母の世話をすることができなかったこと。彼女の話すタガログ語は、ぐっと私たちを故郷であるフィリピンへと引き寄せる。彼女が劇中うたう「瀬戸の花嫁」は日本で労働するジェッサさん自身へと重ねられ、日本/アジアの複雑な関係を浮かび上がらせていく。これまでの形式を踏襲しているが、ジェッサさんのパーソナリティも含め、村川の提示した枠組は福岡という場に十分に馴染んでいた。『Pamilya』は、福岡というローカルな場がいかにグローバルな社会情勢とつながっているかを丹念なリサーチによって明らかにした。特に福岡弁とタガログ語という言語の往還がそれを示していたのは興味深い。
村川拓也『Pamliya』
撮影:富永亜紀子
2月最終週は、日本でも多くの劇団が、公演の実施や中止の判断を余儀なくされた週だった。庭劇団ペニノとDOORプロデュースは細心の注意を払って実施された。
庭劇団ペニノ『蛸入道 忘却ノ儀』(2/29-3/1、なみきスクエア大練習室)は、ドラマ性のある劇作品というよりは、疑似的な儀式を体験するパフォーマンスである。観客は開場前、ドーナツ型のお札にそれぞれ名前と願いごとを書く。これは、劇中に読まれ供養された。劇場に入ると、お堂が設営されている。アクティングエリアのみならず、天井まで設計され舞台美術というよりは建築といってもよい。囲み舞台は疑似的なコミュニティをつくるための仕掛けの一つだろう。冒頭、演出のタニノが蛸について話をする。蛸には心臓が三つ、脳が九つある。やがて、人類と蛸はひとつの生命体へと近づいていくのではないか… 説明の後、タニノの太鼓によって演者が登場する。観客から提供された蛸色の服を身に着け、怪しげな儀式が始まる。観客は手渡された経典をめくりながら、舞台中央で行われるパフォーマンスを鑑賞する。
パフォーマーの指示に従ってお堂の扉を閉めたり、手元の楽器を鳴らしたりすることで、観客はこの儀式を体験する。冗談か本気かよく分からないその滑稽さは、2020年3月に亡くなった別役実の嘘話も彷彿とさせた。楽器を演奏しながら、彼らの読経はやがてトランス状態となるが、フィクションとしてのおかしみは保たれていた。
儀式に没入する俳優と観客が、やがて自我を忘却し、人とタコがひとつになるように一体化する…となれば良かったが、それには、お互いのフィードバックが足りなかった。様々なギミックに圧倒されたことは事実だが、この場を成立させるうえで細心の注意が払われたことの方に意識がいってしまった(観客は常時マスク着用、教本や楽器、座布団も各公演消毒を行っている)。願いの札には「無病息災」「健康第一」「公演成功」といった文言も見えた。ほんらい意図していなかったとはいえ、相次ぐ公演の中止のことを思うと、俳優がトランス状態で行った読経にも切実さを感じてしまう。このような状況でなかったら…と思わざるを得なかった。
庭劇団ペニノ『蛸入道 忘却ノ儀』
撮影:井上嘉和
提供:KYOTO EXPERIMENT事務局
DOORプロデュースは河口円が企画製作する大阪のプロデュースユニットである。河口によれば、この公演も実施するか否かは、公演直前まで分からなかったようだ(終演後、DOORプロデュースHPよりhttps://tobirawoakeru.jimdofree.com/)。
『ピタゴラスのドレス』(2/29-3/1、ぽんプラザホール)は、庭劇団ペニノの作品とは打って変わって、スタンダードな劇作品である。夏川和幸(早川丈二)が営む民宿「なつかわ」に妹の幸子(小川十紀子)が帰ってくる。大阪でホテルを営んでいた和幸は妻の和歌子(是常祐美)と共に地域おこし協力隊として、この村にやってきた。幸子は交際していた16歳年下の数学オタクの乙部翔太(飯嶋松之助)との結婚を目前に帰ってくる。何気なく使われている関西弁も、各地域の言葉の劇が混在するこのようなフェスティバルでは異なる印象を抱かせる。軽妙な会話は、福岡に大阪のお笑い文化がやってきたようにも受け取れる。
全体はコメディタッチで描かれるが、物語の中心にあるのは幸子の葛藤。姉の千佳(大江雅子)に子供はどうするのかと詰られた翔太は、幸子とのより良い関係を模索するために妊娠に関する本を読んでいた。しかし、実は幸子は赤ん坊を失ったことがきっかけで離婚した過去があり、翔太の行動が居たたまれなくなって逃げだしてしまう。兄の和幸は「もうええから」と幸子を受け止め、披露宴で行う予定だったスピーチを行って、幸子を慰める。幸子の葛藤に気づいた翔太は、自分の思いを打ち明け、それぞれの幸せのありかを探ろうとする。互いに寄り添いながら、拭えぬ過去の辛さを受け止めていく関係は、前述した劇団きららの作品とも通い合うものがあった。
DOORプロデュース
『ピタゴラスのドレス』
拠点となる地域も形式も様々であったが、振り返ってみると、あらためて演劇の社会的な意義を見つめ直す機会になった。
まず、どの劇団も手探りで社会的課題を乗り越えようとその糸口を模索していた。『70点ダイアリーズ』『愛のえんえん』『ピタゴラスのドレス』のように、セーフティネットとしての場を提示する作品もあれば、『Pamilya』『蛸人間 忘却ノ儀』のように、これまでの日常の価値観をずらす、あるいは疑似的なコミュニティを提示することで、硬直化した場所を解きほぐす役割を担うものもあった。いずれもそれぞれのアプローチで、現代社会に対する「生きづらさ」への応答を垣間見ることができた。
また、各地域の劇団が東京とは異なる場所に会する機会は非常に重要である。各劇団や観客のネットワーク形成はもちろん、この場所だからこそ見えるアングルがあって、それは東京や大阪のような都市とも違うはずだ。何気なく使われる地域の言葉も違って聞こえるし、自ずとローカルな差異に目をむけて観劇することとなる。そのまなざしがローカリティを越えた時どのような意味をもつのか、そこに地域の演劇を批評する際の意味があるのではないか。
しかし、何よりも今は、当たり前のように観劇できる日常を尊く思う。劇場が一日も早く本来の姿に戻ることを祈りたい。
写真協力:(公財)福岡市文化芸術振興財団
※2021年2月16日にタイトルを「キビるフェス2019」から「キビるフェス2020」に訂正しました。
地点:#ミュラーの肩上で、2020年代向けてアジってみた――地点『ハムレット・マシーン』
瀧尻浩士
撮影:寺司正彦
2019年10月24日~31日
THEATRE E9 KYOTO
テキスト:ハイナー・ミュラー
翻訳:谷川道子
演出:三浦基
出演:安部聡子 石田大 小河原康二 窪田史恵 小林洋平 田中祐気
舞台美術:杉山至
衣裳:コレット・ウシャール
照明:藤原康弘
音響:堂岡俊弘
舞台監督:大鹿展明
制作:田嶋結菜
■瀧尻浩士(たきじり・ひろし)演劇研究。現在の関心は、桜隊と女優園井恵子の生涯。明治大学文学部卒業、オハイオ大学大学院国際学修士課程修了。大阪大学大学院文学研究科在籍。
視覚と聴覚に刺激を与え、混沌、腐敗、殺戮に満ちた世界の歴史を抽象的言語とイメージで再現した舞台とでも言ったらいいのだろうか。開演前、舞台には既に真っ赤なカーネーションが敷き詰められている。そこにシンバル、傘、トランペット、壺、棺桶蓋のような戸板。舞台背面にはラファエロの聖母画のような絵画が掛けられている。次第に照明が落ち、客席は静まり、舞台は闇の中で息をひそめながら、始まりを告げる。その真っ暗な舞台に軽やかなマンドリンの音色が流れる。暗転が明けると演技者たちは、舞台に置かれていたそれぞれのものを抱えて、舞台に散りばめられた真っ赤な花びらの上に横たわる。彼らは絶え間なく、つぶやくように、時に叫びながら言葉を語り始める。
フライヤーには、テキスト:ハイナー・ミュラー(翻訳:谷川道子)とある。ミュラーのオリジナルテキストは「私はハムレットだった」で始まるごく短いものだ。だが、上演はかなり改変されたものだった。ミュラーのテキストそのままの部分もあるが、多くはこの上演のために独自に追加されたものだと思われる。台詞の分量も演技者たちがしゃべり続けて一時間を超す量である。地点の三浦基は演出家であり、劇作家ではない。その演出はテキストの従者として厳格にテキストの言葉に従って劇世界を再現するのではなく、テキストが本来持つ意味世界を保ちながらも、それを上演する時代、社会の現実に呼応して世界を映し出すべく、テキストのほうを演出に引き寄せる方法を取っている。それはテキストの改変というよりは、演出によるテキストの再創造と言えよう。
ミュラーのテキストは、ハムレット、オフィーリア、ホレーシオなど『ハムレット』の人物、あるいはその役を演じる者たちが、『ハムレット』の構造をベースに、現実世界を、歴史を、独自の言語表現で語る。この地点の上演では、そこに台詞の追加だけではなく、構造自体の再構築を図っている。ミュラーの『ハムレットマシーン』は5場から成る。廃墟たるヨーロッパ、死者たちの大学、深海などの場、あるいは、ハンガリー動乱やプラハの春を思わせる時代、氷河時代、数千年世紀といった様々な時間で構成されている。各場の短いテキストは観念的な暗喩の言葉に満ち、場所と時間が飛躍するイメージの集積となっている。それをこの上演では、この5場を解体して、ミュラーが記述した言葉をその順番通りではなく、行ったり来たりしつつ、その上に三浦独自の言葉と音楽を加えることで、全体を再構成してみせた。
冒頭、演技者たちは赤ん坊の真似をする。オギャーオギャーと泣きながら、昭和38年のヒット歌謡曲『こんにちは赤ちゃん』のメロディーに乗せて台詞を歌う。ドクンドクンとバックで響く心臓の鼓動音。赤い花はカーネーション、赤に包まれた赤子たち。それは母の胎内か。ミュラーのテキストには、このような場面はない。
演技者たちは、赤ちゃん言葉をやめたあと、それ以降の台詞の語尾に「~イッヒ」をつけだすようになる。イッヒ、すなわち ich ドイツ語一人称。それは自我と欲望の目覚めかもしれない。やがて寝ころんだ状態から立ち上がる。彼らは皆、片足でふらふらと立ち続ける。その姿は、自我が目覚めても自立できないまま、不自由さに耐えて生きることを余儀なくされているかのようだ。そして舞台は次第に、腐敗にまみれた世界を糾弾するような言葉と幻想によって埋め尽くされてゆく。それはまるで支配と抵抗、戦いの歴史絵巻。ミュラーのテキストに潜む様々な記号(それはシェークスピアの引用であったり、過去の世界大戦、革命、内乱を想起させるワードであったりする)は、ミュラーを取り巻いていた時代を示す諸々の暗喩である。ミュラーの『ハムレットマシーン』を上演するための言葉としてはそれで十分なはずだが、三浦はそこに演出家として更に鋭角的な切り込みを入れた。ミュラーが土台としたハムレットの枠組みの上に、更に具体的で直接的なワード(ヒトラー、ユダヤ人、革命、モスクワ裁判、強制労働、ポルポト等々)を放り込み、象徴的な音楽(アメリカやフランス国歌、ベトナム戦争を支持したエルビス・プレスリーの歌)を被せていく。三浦が加えたこれらの要素により、様々な暗喩によってミュラーが提示した世界がより明確になっていく。
ミュラーが記述した言葉は、「地点語」と呼ばれる三浦の劇団独自の、不可解なイントネーションや接尾語、不自然な音節の区切り方など特有の発語方法で観客に向けて再提出される。また更に『ハムレットマシーン』でありながら、「ノーモアシェークスピア」、「ノーモアヒーロー」、「この戯曲そのものが記述の時代には現実でなくなっているある経験を記述する試みなのだ」などといった、ミュラーのテキストそのものに対する地点独自の視点が途中加えられている。この上演は1977年に書かれたテキストを、2019年上演の現代から俯瞰し再解釈をしようとする試みだと言えるかもしれない。三浦基は「地点語」というメタ言語で、『ハムレットマシーン』を現代において解説、評価しようとしたのではなかろうか。
撮影:寺司正彦
ミュラーの時代から更に時は流れ、現代の日本において既に「現実でなくなっている経験」である戦争や革命は、果たして過去の歴史なのか。劇中、世界の近現代の歴史が、言語と音楽で糾弾される。だがそれらは過去のものではなく、世界のどこかで今まさに別の形で存在している事実なのだ。だが今の日本はどうだろう。それに無関心を装い、不穏な空気に不感症になった外見の平和な日常にあまんじてはいないか。ミュラーが1970年代の同時代の政治的関心に訴えているとしたら、三浦はこの現代の、日本の政治的無関心に対してアジテーションしているかのようだ。終幕に向けて、連射される言葉は、連想ゲーム化され、もはや意味を持った言語ではなく、音楽であり、リズムを持ったアジテーションとして、無言の観客に向けて吐き続けられる。かつての論理的なアジテーションという手法から、論理よりイメージを優先する現代の観客を攪拌する手段としてのラップを用いて。
やがて言葉を吐き切った人物たちは、劇中で無秩序に散らばってしまった赤いカーネーションを再び手でかき集め、元の位置に戻そうとする。そして彼らは冒頭と同じく再び赤子のようにひざを抱えて静かに横たわる。
この上演を振り返ると、三浦基が再構成した劇の大きな流れが見えてくる。
赤ん坊がいる赤い部屋(地点独自の場) → 陰惨な戦いの歴史(ミュラーのテキスト部分)
→ 再び元の赤い部屋(地点独自の場)
三浦は、ミュラーの作品の前後を、母胎を想起させる場面で挟み込んだ。ミュラーのテキスト本文を「地点語」で解釈、再表現し、更に前後の場を追補することで、テキストそのもののポジションを明確にした。
ミュラーのテキストにある、オフィーリア役の言葉「わたしの産んだ世界を回収します」とハムレット役が言う「女の胎は一方通行路でない」という言葉が呼応する。訳者の谷川道子は訳注として、これを「歴史を産む女の胎は、歴史を逆行させ、回収することもできる」と解している。三浦がこれらの言葉を膨らませこの劇を再構成したと考えると、冒頭と最後の場の「赤子が横たわる赤い部屋」は、ミュラーがテキストで記述した戦いの歴史を産み、やがてそれを回収することもできる「女の胎」であると考えてよいだろう。
母から生まれた者同士が殺し合いをしてきた歴史、今もってそこにある現実は、その生命の源であるものに、いつか回収されてしまうのだろうか。それはこの人類の戦いの歴史にいつか終止符が打たれる日が来ることを暗示する一種の黙示録なのか。それとも、何度産み落とされても、汚れた歴史を繰り返しては再び回収され、そしてまた産まれ直すことに疑問を抱かない人類は、結局その愚かで絶望的な反復運動の中でしか生きられないということなのか。地点版『ハムレットマシーン』は、赤い部屋をオリジナルテキストの前後に置き、そんな「一方通行ではない」、繰り返される愚かな歴史の円環構造をイメージ化し、2019年という生まれ直された世界に生きる我々に疑問を投げかける。この時代の、この日の、この瞬間に、客席から立ち会った観客は、目の前の舞台から言葉と音でぶちまけられたその暴力と腐敗の歴史絵巻に、顔を背け、耳を塞ぐことは、もはやできない。
ハイナー・ミュラーは1970年代の社会に向けてアジった。三浦基は、そのミュラーの肩の上に乗っかり、今度は2020年代に向けて現代のリズムをもって舞台上からアジった。そのアジテーションが果たして届いたのか。それは無言で座っていた観客ひとりひとりが決めることである。
撮影:寺司正彦
モノとともにある身体の布置――相模友士郎『ALIENS(エイリアンズ)』
竹田真理
⇒公演チラシ
相模友士郎「エイリアンズ」
日時|2019年11月29日(金)19:00、30日(土)15:00/19:00、12月1日(日)11:00/15:00
会場|京都芸術センター フリースペース
*各回定員20名。
構成|相模友士郎、佐藤健大郎、白井剛
演出|相模友士郎
出演|佐藤健大郎、白井剛
ドラマトゥルク|山田咲
照明|高原文江
音響|西川文章
舞台監督|夏目雅也
■竹田真理(たけだ・まり)ダンス批評。関西を拠点にコンテンポラリーダンスの公演評、テキスト、インタビュー記事等をダンス専門誌紙、一般紙、ウェブ媒体等に寄稿。
相模友士郎は前作『LOVE SONGS』で鉢植えの植物を舞台に並べた無人の演劇を試みた。照明と音響の効果だけで昼夜の巡りを演出し、植物に唄わせる。幾分コンセプト先行ではあるものの、光を受けた愉悦の中で植物たちが確かに声を交わし合っていると感じられる瞬間があった。このポストヒューマンな視点を匂わせる試みは、人間以外のモノや物質によりある環境を創出する本作の構想に引き継がれている。「植物の演劇」を夢想するとの相模のコンセプトに佐藤健大郎の身体、白井剛の感性が合体して本作『エイリアンズ』が生まれた。
目を引くのは、公演のためにオリジナルにデザインされた「椅子」である。木材を組み合わせた簡易な造形物で、観客は靴を脱いで底面の板に乗り、わずかに傾斜のついた背もたれのボードに身体を預けて鑑賞する。途中でしゃがんだりするのは自由。だが移動はできない。椅子は観客の視点を固定する装置でもあるのだ。椅子の位置によって見える景色、パフォーマンスから得られる情報や体験は異なる。あえて経験の分断を仕掛け、個々がよそ者=エイリアンズとしてこの場に臨むことを作品はあらかじめ意図しているようにも読める。舞台の照明に工夫があり、自然光に近い彩度で空間を柔らかく照らすが、後で聞いたところでは、ライティングの床への反射が、椅子との位置関係により何等かの像を立ち上げるような効果(ホログラム?逃げ水?)を生んでいたのが見えたらしい。私の椅子の位置からは確認されなかった(或いはあまりに繊細な現象であるため気付かなかった)が、互いに異なる鑑賞体験が得られた例のひとつだろうか。補い合ってはじめてパフォーマンスの全体像が把握されるわけである。この「椅子」が20脚ほどフロアをぐるりと囲み、ストーンヘンジのようなサークルを形成していて、その内側がアクティングエリアである。エリア内に置かれた植木、庭石、水を張ったボール、宙に吊るされたベニヤ板。板の先端は水に浸され、滲んだ染みが時間の経過を表す。他に庭石を温める電気ストーブ、庭石とは別に散在する石。石は各椅子の前にも一つずつ置かれ、供え物か何かのような儀式的な意味合いを帯びる。一見、脈絡なく置かれたこれらのモノは、植物、鉱物、水、光、熱といった物質性によって関連づけられている。そこに人間の身体がモノと同等に置かれる。植物、鉱物、水、身体がわれわれの日常世界とは異なるコードをもってひとつの環境を形成する。
撮影:守屋友樹
提供:京都芸術センター
パフォーマンスでは佐藤の身体が植物や鉱物と同等に置かれ、白井は佐藤の身体に様々な働きかけを行っていく。横たわる佐藤の耳元に白井が口を寄せ何かをささやくと、佐藤は肘先を床から立ち上げ、手のひらを開く。水をやると芽を吹く植物を思わせる反応だ。フロアの一箇所には服の山があり、ここから白井が毛布を一枚取って掛けてやると、佐藤はやはり反応して首を横に向け、膝を立てる。服の山を一枚ずつ畳んで整え、ペットボトルから給水される装置で植木に水をやる白井の動作は、丹精込めてなされる庭仕事の作業にも見える。庭で土や草木の世話をするのと同じように、佐藤の身体を慈しみ、保護し、手当てし、整え、養生する。また佐藤の身体と床の隙間に自らの身体を差し入れ、少しずつ立ち上がらせていく動作は、リハビリの介助や介護の仕事を連想させる。ここにジョン・グムヒョン『リハビリ・トレーニング』(KYOTO EXPERIMENT 2018にて上演)の、動かないダミーの一挙手一投足を手順を踏んで操作していく行程を思い起こしてもよいだろう。対象を慈しみいたわるように扱う白井の態度は、モノの質感との戯れを振り付けた白井・作『静物画―still life』(2010)の鋭敏な身体を思い起こさせる。さらに、物質と同等の視界から組み上げられた本作『EILIANS』の環境そのものが、モノとの関係により身体を空間に再配置した『質量,slide,&.』(2004)のサイエンティフィックな思考に通底している。モノを扱い、物質に躍らせる白井の思考と感性が無人の演劇を志向する相模のコンセプトに具体的な身体性を与えていく。
モノとしての身体、あるいは植物の化身であるのかもしれない佐藤の身体は、白井に導かれて徐々に動きを得てゆく。白井は佐藤を支え、手を引き、前に出て語り掛け、肩を並べて歩く。そしてあるところでそっと離れ、佐藤を“リリース”する。ひとりぎこちなく歩行する佐藤の身体は剥き出しの物質性を露わにする。内的な動機を持たない統合を欠いた動き、どこにも焦点を結ばない目の空っぽさが素晴らしい。白井が「これを取れ」と空中を指差すと、佐藤はエアーで「それ」を手に取り、ポイと投げ捨てる。そうして徐々に息が吹き込まれ歩みを確かにしていく佐藤と、佐藤に寄り添う白井の歩行は、やがてユニゾンを生み、サークル内をゆったりと周回する。それは紛れもない、ダンスと呼ぶほかない時間の到来である。二つの身体が歩調を合わせ、同じ角度で手をあげるだけで、どうしてこのように喜びと官能に満ちた瞬間が訪れるのか。白井が歩きながら佐藤のシャツのボタンをはずす手つきの繊細さはどうだろう。物質の布置のレベルで存在する佐藤の「異なる」身体=エイリアンは白井のはたらきかけで世界に迎え入れられ、佐藤を含む環境そのものが新たな布置に組み替えられる。ダンスの到来は新たな鼓動とリズムで世界が秩序立てられ、新たなパースペクティブによって場が開かれていくのを告げている。本作ではもう一つの大きな要素として往年のポップスが流れる。ミニー・リパートン『Loving you』、エルビス・プレスリー『ラブ・ミー・テンダー』、ジョン・レノン『Woman』、ビリー・ジョエル、プリンス・・・いずれもラブ・ソングの名曲だ。70年代~80年代初めの曲が多く選曲されていて、この頃のポップ・ミュージックの充実を思う。言うまでもなくこの選曲は前作『LOVE SONGS』を受けてのことである。二人が並んで歩き始める場面で流れるのはカーペンターズ『Close to you』だ。ラブ・ソングズが世界の美しさを唄い、ともに円周上を進む二人の歩行は、零れ出るダンスの時間そのものであり、目的地のない永遠の時間でもある。観客はそれぞれの位置でメリーゴーランドを眺めるように、二人が近づき、目の前を通過し、遠ざかるのを見送る。
佐藤の動きは周回ごとにダンス度を高め、ケイト・ブッシュの『嵐が丘』で大きく乱舞する。周回する時間のこれがクライマックスとなるが、この時、サークルの中では白井が最初に佐藤のいた位置に身を横たえる。そこに現われるのは相模である。遠ざかるケイト・ブッシュと聞こえてくる虫の音が昼夜の巡りを思わせる中、いまや相模は白井が佐藤にそうしたように白井の耳元に口を寄せる。白井の身体は反応して床から腕の先を上げる。相模の庭と化した環境配置とループする時間の中で、介助を受けて立ち上がる白井は全く新しい世界を目にするような表情で周囲を見回す。物質の側に身体の位相を移した白井にとって、世界は今、異なる布置で成り立つあらたなパースペクティブを呈しているのだろう。
インスタレーションを思わせる会場設営やモノや身体の扱いなど、ダンス公演の定形に収まらない形態をとりながら、ダンスの愉悦をせつないまでに謳歌した作品として本作は記憶されよう。筋力と技術のダイナミクスとしてのダンスムーブメントではなく、副交感神経に司られるかのような静的・受動的で不随意を本来とするモノたちの存在のモードを謳いあげる。植物、鉱物、水、光――物質による声なき唄、ムーブメントなきダンスの愉悦である。しかし目下、コロナ禍において、公演時には予想だにしなかった見えないウィルスに身体を明け渡すかの攻防、もしくはウィルスとの共存をすら言われる状況にあって、本作は一入のリアリティをもって思い返されるだろう。人間の意志や意識に還元されない「異なる」配置と存在の様式、椅子の配置がもたらした鑑賞者の関与のあり方は、コロナ以後への預言を孕んだ生存のモードを示唆していよう。3人がそれぞれにもつ繊細な思考と身体が作品の方向性に資したことは確かである。
(2019年11月30日、京都芸術センター フリースペース)
撮影:守屋友樹
提供:京都芸術センター
繰り返される暴君の物語――栗山民也演出、アルベール・カミュ作『カリギュラ』
藤城孝輔
作:アルベール・カミュ
翻訳:岩切正一郎
演出:栗山民也
キャスト:菅田将暉 高杉真宙 谷田 歩 橋本 淳 秋山菜津子
原 康義 石田圭祐 世古陽丸 櫻井章喜 俵 和也 野坂 弘 坂川慶成
石井 淳 石井英明 稲葉俊一 川澄透子 小谷真一 小比類巻諒介 西原やすあき 髙草量平 原 一登 平野 亙 峰﨑亮介 吉澤恒多
2019年12月5日(木)~12月8日(日)
会場:神戸国際会館こくさいホール
美術:二村周作
照明:勝柴次朗
音楽:金子飛鳥
音響:山本浩一
衣裳:前田文子
ヘアメイク:鎌田直樹
アクション:渥美 博
振付:八子真寿美
演出助手:坪井彰宏
舞台監督:加藤 高
主催:関西テレビ/キョードーマネージメントシステムズ
■藤城孝輔(ふじき・こうすけ)岡山理科大学教育講師/映画研究・映像翻訳
新型コロナウイルスの影響で最近はほとんど劇場に足を運べていない。2020年3月以降、予約を入れていた舞台は次々と公演中止になり、チケットの返金手続きのみならず手配していた宿や移動手段のキャンセルに追われた。アルベール・カミュの小説『ペスト』(1947年)がにわかに売れ行きを伸ばしているというが、昨今の社会的混乱と動揺は疫病という不条理に直面した世界の脆弱さを露見させたように思える。当たり前に続くものだと思っていた社会機構が世界各地でいとも簡単に停止し、いつでも買えるはずだった日用品が買えなくなり、デマと差別と不謹慎狩りがはびこった。こんなご時世に不要不急の演劇なんて、といったSNS上での辛らつな言葉を見るにつけ私は戸惑いを禁じ得ない。自分にとって不要不急なものが他の誰かにとっては今すぐ必要かもしれないと想像する精神的余裕が急速に失われつつある気がする。
カミュの『カリギュラ』は昨年12月に観た。近親相姦の関係にあった妹の死をきっかけに生の不条理に気づき、非道の限りを尽くす暴君の戯曲はこれまで度々上演されてきただけでなく、バレエ(パリ・オペラ座バレエ団、2005年)やポルノ映画(ペントハウス、1980年)など他のメディア作品にも少なからぬ影響を与えてきた。戯曲の筋書きは既によく知られ、過去の公演も記憶に新しい。特に日本では今回の栗山民也演出、菅田将暉主演の2019年版に先立ち、2007年には蜷川幸雄の演出で小栗旬が主役を務めた『カリギュラ』が上演されている。蜷川版と今回の栗山版は、ともに岩切正一郎がフランス語からの翻訳を担当していることからセリフにおいても同一の部分が非常に多い。今回の『カリギュラ』には12年前の蜷川と同じ素材を違う手法で料理して独自性を発揮しようとする栗山の意気込みが色濃く表れていた。素材が同じだからこそ、演出、演技、解釈の違いが作品の見どころとなる。
栗山版の『カリギュラ』を観て真っ先に目についたのは主人公の子どもっぽさである。菅田は髪をいがぐり頭に刈り、顔には道化のように蒼白くドーランを塗り、入院患者の病衣を思わせるゆったりとした衣装から細い手足を出した姿で登場する。歪んだ王冠を模したかのような、10メートル近くはある傾いた柱の列が舞台の両脇にそびえ、彼をはじめとする人物の小ささを際立たせる。演出面でも子どものようにおどけて見せたり、鏡に見立てた床のアクリル板の上で胎児のように丸くなったりと、菅田のカリギュラの幼児性が繰り返し強調される。これは蜷川が演出した小栗旬のカリギュラが、低い発声や無精ひげ、さらには腰巻き一枚にゆるやかなケープを羽織っただけという全身の筋肉を露出させた衣装で成人男性の屈強な肉体を目立たせていたのとは対照的である。「菅田は一見、自由で素朴な少年そのものだが、何事も見透かすような鋭い視線を時折放つ。このカリギュラは子供の遊びのように女を抱き、毒を盛る」と紹介されるとおり、29歳のカリギュラを年少者のように描く演出は今回の栗山版の顕著な特色となっている。(1)
このような栗山版の演出はカリギュラと他の登場人物の関係にも変化を与えている。カリギュラの幼児性と重ねると、彼の年上の情婦であるセゾニアは愛人というよりも母親のように見えてくる。戯曲の中でセゾニアはカリギュラの苦悩を理解しようと努める人物である。蜷川版では若村麻由美がカリギュラの狂気に戸惑いながらもどうすることもできない無力な女としてセゾニアを演じており、カリギュラとの関係はあくまでも男女のそれとして描かれていた。一方、栗山版では恰幅が良く、菅田との年齢も親子並みに離れた秋山菜津子がセゾニアを演じることで包容力を持った母性が体現されている。カリギュラが迫りくる反乱におびえるシーンでは、セゾニアは膝の上で丸くなる彼を抱き締め、なだめるように背中をなでる。その姿はまさに幼い子どもをあやす母親そのものである。たとえセリフがほぼ同じでも、演者と演出方法が変わることで登場人物の関係の意味合いが変わる好例であろう。
また、カリギュラと対立し、最終的に彼の暗殺を指揮するケレアとの関係も蜷川版と栗山版では違いが見られる。二人が対話する後半のシーンでは、蜷川版は二人の人物を舞台上の階段の同じ段の上に座らせて顔と顔を向き合わせることで、異なる立場の人間同士が一時的に同じ目線に立ったことを表現する。一方、栗山版ではひび割れた地面を模した段差のあるステージを活かし、同じ高さでの対面が回避される。このことにより、不条理をどこまでも推し進めるカリギュラの論理と共同体のために暴君を排除しようとするケレアの正義とが本質的に相容れないものであることが示唆される。さらにラストの暗殺シーンでは、橋本淳演じるケレアは他の臣下とともに舞台奥に並び、直接カリギュラに手を下すことはない。ケレアの姿は後方から照らされる強烈なライトの効果で観客席からはシルエットとしてしか見えず、彼の表情まではわからない。ケレアが単なる個人ではなく、共同体の正義を体現していることを象徴する演出である。これは蜷川版の中で長谷川博己のケレアが背後から剣を突き立てると、小栗のカリギュラが血にまみれた手でケレアの頬をなで、彼の唇に唇を寄せるというホモエロティックな演出が行われたのとは対照的である。
唯一気になったのはセリフの言葉遣いである。蜷川版に際して新たに訳した岩切正一郎の日本語訳は第15回湯浅芳子賞(翻訳・脚色部門)を受賞し、2008年には書籍として刊行されている。(2) しかし今回の公演のセリフは2007年版の訳とまったく同じ内容というわけではない。岩切は演出の栗山と「言い回しから語尾に到るまでセリフのさまざまなチェックを行った」という。(3) その結果、セリフは耳で聞いてわかりやすくなり難解な劇という印象は薄れた一方、和語を主とする話し言葉がより多く採用されたため抽象的な話をしているシーンでも日常語のニュアンスが抜けきれないものとなった。特にそれを強く感じさせるのが、生の無意味さを悟ったカリギュラの終盤のセリフにおける「何一つ永続しない!」から「何一つ長続きしない!」への変更である。たしかに漢字語は聞いて理解しにくい難点はあるが、「長続き」ではどうしても「飽きっぽい」「忍耐力がない」といった日常語における言外の意味を連想させてしまう。カリギュラが絶望の果てにたどり着いた真理としてはお粗末に感じた。
同一の翻訳者によって訳された同じ名作戯曲の上演であることから、今回の『カリギュラ』は蜷川版との比較はどうしても免れない。小栗のカリギュラが世界に絶望し、憂いと色気に満ちた悲劇の主人公であったのに対し、菅田が演じる子どものようなカリギュラは欺瞞に満ちた大人たちに不条理を突きつけるトリックスターとして機能する。どちらの料理法もカミュの戯曲の独自な解釈として評価できる。その一方で、私は『カリギュラ』が改めて2019年末に上演された今日的な意味についても思いを巡らさずにはいられない。「この私がペストの代わりを務める」という宣言の下に世界を不条理の中に放り込むカリギュラの物語は、奇しくも新型コロナの世界的蔓延という文脈において作り手自身も予期していなかったであろう予言的性格を帯びることになった。死者数が不気味に伸びていき、盤石と思われた文化が瞬く間に危機に瀕するという厳然たる現実を前に、人間はどう絶望することなく生きる意味を見出すべきだろうか? 感染拡大の状況との一致はもちろん偶然によるものではあるが、この作品はそんな問いを今の私たちに投げかけ得るものだと考える。
註
(1) 三浦真紀編・文『CALIGULA』劇場用プログラム([東京]:深雪印刷、2019年)、45頁
(2) アルベール・カミュ(岩切正一郎訳)『アルベール・カミュI カリギュラ』(東京:早川書房、2008年)
(3) 岩切正一郎「不条理という情念、あるいは受苦」『CALIGULA』劇場用プログラム、6頁
AICT関西演劇講座2020 (1)「批評とは何か――2020年代に向けて」
金 潤貞
新型コロナウイルスで、世界がこんなに近かったかということに改めて驚く。国と国、人と人、その関係性が問いかけられている。その最中時、3月21日に大阪府立江之子島文化芸術創造センターで、講師の森山直人による演劇講座が行われた。「批評とは何か――2020年代に向けて」というテーマで、AICT関西支部の会員を含め、演劇学を専攻している大学院生、また批評活動をしている方々、12名の参加者が集まった。
自己紹介がまだ済まないうちに、演劇をどう考えるべきかという話が始まった。※演劇に関わっている人だからこそ、それ自体をじっくりと考えることはそうそうないかもしれない。明治時代に西洋から流入した「演劇」という用語は、現在どう理解されているのか、何が「演劇」と呼ばれているのか。急速に変化してきた時代に伴って、演劇批評はどのように位置づけられてきたのか。今日、演劇批評はどう機能していて、その地平はいかに広げられるのか。講座は演劇と批評、そして演劇批評をめぐる本質的な問いから開かれた。
休憩時間に室内を十分換気してから、4人の参加者の書いた批評を一緒に読ませていただく時間を持った。一文ずつ筆者のコメントを聞き、そこから浮かんでくる演劇批評の様々な側面について話し合った。映画批評を含んだ他ジャンルの批評と演劇批評はどう違うか。公演を観ていない読者にとって批評はどんなものになるのか。ある公演が持つ時宜的な意味は、公演自体の意義につながるのか。新聞やSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)による批評はどのように機能するのか。筆者自身の感覚、二度も同じようにはならない、瞬間とも言える演劇、その経験をいかに伝えるか。
残された自己紹介をし、打ち合わせ場所に移動した。静まっている街、閑寂とした店の中でも話はつづいた。何かを表現しようとすることがそうであるかのように、批評も「私」から「貴方」にかける一つの声。批評を考えるということは、結局、読者を考えることである。何かを観て、感じて、それを考えて、書いて、ある変化を期待するということは、演劇と観客が、また観客と世界が結びつけられるように、お互いの存在を認識させることであろう。それが今回の講座により再確認された「批評」というものと思う。
※ 話は次の論考を基に行なった。森山直人「「演劇的」への転回―舞台演劇の時代の「批評」に向けて」『舞台芸術』23号、京都造形芸術大学舞台芸術研究センター、2020年3月、141-148頁。
日時 2020年3月21日 13:45〜16:45
会場 大阪府立江之子島文化芸術創造センター2階、ルーム11
講師 森山直人(演劇批評家、京都造形芸術大学舞台芸術学科教授)
参加者 12名
キム・ユンジョン 韓国芸術総合学校演劇院演劇学修士号取得(1960~80年代の韓国小劇場運動研究)。大阪大学大学院文学研究科文化表現論専攻演劇学在学中。2008年学生批評家として演劇専門学術ジャーナルに公演批評を収録して以来、ドラマターグ及び批評家として活動してきた。2013年から2015年まで国際演劇評論家協会のウェブ・ジャーナル「Critical Stage」の編集の仕事を、2015年から約2年間は国際演劇評論家協会(韓国支部)の幹事の仕事をした。演劇アーカイブ研究員としてアジアの小劇場運動に関する様々な国立プロジェクトに参加し、現在、太田省吾を研究している。