

【小特集 close up】
ソン・ギウン『外地の三人姉妹』
KAC Performing Arts Program 2019 / Theater
演劇作品における新たな主体をめぐって
日時:2020年2月21日・22日
会場:京都芸術センターフリースペース
作・演出:ソン・ギウン
主催:大阪大学文学研究科、京都芸術センター

誰かを舞台に連れていく(2)「また次、観てみたいという気持ちになったよ。」
岡田祥子

撮影:石井靖彦
【1】『外地の三人姉妹』について⁺
『外地の三人姉妹』の公演は、2019年度、大阪大学大学院文学研究科(共催 大阪大学社学共創本部、大阪大学総合学術博物館)により実施された「徴しの上を鳥が飛ぶ-文学研究科におけるアート・プラクシス人材育成プログラム-」の1年間の活動を締めくくるものであった。本プログラム[第3期]において、韓国の劇作家、演出家のソン・ギウンを招へいし、アーティスト・イン・レジデンスによるドラマ・ リーディング公演の制作を行った。ソン・ギウンは、韓国の俳優のマ・ドゥヨン、カン・ユミとともに、1カ月間大阪大学に滞在し、日本のキャストやスタッフと力を合わせて制作に取り組んだ。「徴しの上を鳥が飛ぶ」の受講生たちは、この制作に関わることによって、舞台制作の実際に触れ、現代社会の課題を現代演劇がどのように受け止め、解決を探求するのかを実践的に学んだ。私も受講生の1人であった。
本プログラムで、ソン・ギウンはチェーホフの『三人姉妹』の翻案劇『外地の三人姉妹』を執筆した。作品世界の時代を 1935 年から 1942 年、場所を朝鮮半島東北部に実在した羅南という都市に設定した。羅南は、当時朝鮮を植民地支配していた日本の軍部が、軍事戦略的にその地形の地理的な好立地条件に着目して造った新しい都市である。それまで東北の一寒村に過ぎなかった羅南だが、日本陸軍第19 師団が駐屯する軍都となり、一躍繁栄することとなった。『外地の三人姉妹』は、師団の参謀長までつとめた軍人を父に持っていた日本人の三人姉妹一家をめぐる物語である。時代の激しい流れのなか、十代後半から二十代の娘たちと息子は、朝鮮半島の外地で母も父も失い、精神的な孤絶状況に置かれてゆく。
舞台となるのは、朝鮮の羅南ではあるが、日本人の家庭であり、登場人物も大半が日本人であるため、ソン・ギウンは戯曲を完成させないままに来阪、1ヵ月のレジデンス期間のうち2週間をさらに調べたり日本人の役者たちとディスカッションしたりする時間にあて、日本人の習慣や日本語としての不自然さ、間違いを無くすことにつとめた。また、複数の言語を舞台に乗せるという目標を定め、登場人物にエスペラント語を語らせたり、関西弁や東北弁を話す人物を登場させたりした。
私は『外地の三人姉妹』公演にあたって、受講生枠の出演者のオーディションを受け、チェーホフの『三人姉妹』の登場人物アンフィ―サ(三人姉妹の乳母)に該当する「サヨ」という名の老婆の役で出演することになった。11 月のオーディションのあとは、受けたことすら忘れる平穏な日々が続いていたが、2020年1月23日ソン・ギウン一行が大阪大学に到着してからというもの、猛烈な速さで事態が展開してゆき、プロの役者たちにまじって容赦ない連日の稽古に追われることになった。
◎レジデンス期間:2020 年 1月23日~2月23日。
上演日時:2020 年 2月21日(金)18:00~・2月22日(土)14:00~
上演場所:京都芸術センター フリースペース
【2】「また次、観てみたいという気持ちになったよ。」
※
語り手 フクコ・フクちゃん・(F)
【プロフィール】
65歳、女性 親から引きついだ大衆食堂「平和食堂」を切り盛りしながら、一男一女を育てた。絵が好きで高校時代は美術部に所属、油絵を描いていた。夫とは若き日絵画研究所で知り合った。趣味は美術鑑賞と音楽鑑賞。仕事の合間を縫って、日展や二科展を観に行ったり、年末第九コンサートを聴きに行ったり、趣味を楽しむフットワークは軽い。観劇までは守備を広げて来なかったが、幼なじみのサチコが顧問を務めていた高校演劇部の公演は常に観に行っていた。維新派の公演もサチコと一緒に数回観劇しており、お気に入りだった。
聞き手 サチコ・サッちゃん・(S)
【プロフィール】
63歳、女性 無職 銭湯「榎湯」の娘。フクちゃんとは姉妹のように育つ。国語科教員として大阪の市立高校に長年勤め、演劇部の顧問歴も長い。定年退職後は趣味の観劇三昧、学び直しとして大阪大学の適塾講座やアート・プラクシス人材育成プログラム〈徴しの上を鳥が飛ぶ〉に通った。〈徴し〉のアーティスト・イン・レジデンス企画で2月に上演された『外地の三人姉妹』では受講生枠で三人姉妹の乳母のサヨ役に採用され、人生初舞台を経験した。フクちゃんは保護者格で観に来てくれた。


平和食堂の内観と料理
※
春先の平和食堂。客は誰もいない。昼の営業が終わり、夕方までの休憩時間中である。店主のフクコが一人くつろいでいる。サチコがひょいと店のなかを覗きこんだ。
サチコは、ACT「誰かを舞台に連れていく」シリーズ第2弾で、通常なら観に行かないであろうに、劇場に足を運んだ一般人の代表として、フクコに白羽の矢を立てている。幼なじみのサチコが出演するというので、はるばると京都芸術センターまで『外地の三人姉妹』の公演を観に来てくれたからである。フクちゃんは維新派でも生き生きと場の雰囲気を楽しんでいたし、感想に大いに期待できると考えた。そんな企画があるから『外地の三人姉妹』を観た感想を話してほしいという依頼だけはサチコが前からしていた。公演後すぐに聴きに行けばよいものを、サチコは大学に提出するレポートなどに追われ、インタビューが後回しになってしまった。それを反省しつつ。
(S)「こんにちは。フクちゃん、今、時間いける?」
(F)「あ、サッちゃん。ええよ。もうご飯食べた?」
(S)「うん、あり合わせで食べてきた。」
(F)「あり合わせかいな。なんか食べる?」
(S)「今日はお腹いっぱい。それよりちょっと話聞かせてよ。」
(F)「えー、あれかいな。」
(S)「そうそう、あれ。聞かせてくれる?」
(F)「なんか忘れてもうたなぁ。せやなぁ、何から話そ? ていうか、質問してよ。」
(S)「そやね。ほんなら、えーと、まず、公演を観た感想を一言で言うと?」
(F)「いきなりやなぁ。そうやなぁー。びっくりした。」
(S)「そりゃ、またなんで。」
(F)「うん、朗読劇って聞いてたやん。せやから、部屋で本読むのを聴くんやと思てたら、劇場で、また一歩入ったらえらい大きなとこで、真ん中に大きな舞台があって、びっくりしたんよ―。ほんで、両端に見台みたいなんと椅子がずらりと並んでたやん。あれ何?」
(S)「あ、あれは見台ていうか、譜面台。台本置くのに使てん。あそこは舞台に上がる前の待機席でね、出演者全員自分の椅子が決まってて、飲み物を椅子の下に置いといてもええし、あそこではリラックスしてて普通のおしゃべりしててもよかってん。」
(F)「そうなんや。ほんで、開演前になったら裏から人がぞろぞろ出てきてそこに座り出しはって、え、今から何が始まるの?て思たんやわ。」
(S)「想像してたんより大がかりやったってこと?」
(F)「そうそう。朗読劇がまさかあんなんやとは想像もしてへんかったなぁ。ほんで、本番始まったやん。役者さんたちがみんな本持って舞台に上がって開いて読み出しはったやん、その姿には最初はなんか違和感感じたな。衣装つけてるし、せやのに本読んでるしで。」
(S)「ふんふん。」
(F)「でも、聴いているうちにだんだん話の筋がわかってきて、物語に引きこまれていって、気いついたら読んでる姿にも違和感が完全に消えてなじんでしまった。それはよう覚えてるわ。」
(S)「ふーん。」
(F)「あ、後ろの字幕、あれあったからわかりやすかったな。時代とか地理的なこととかよくわかった。あれはあってよかったな。」
(S)「そうやね。家具で見えにくい字が出たとか、いろいろ苦労はあったみたいやけど。」
(F)「ひとつ言いたいことあるねんけど。ナレーターが『間』て言うやん。あれいらんかったわ。『ま』て聞いたとき何?て思たよ。こっちかて見てるんやし、言わんでもと思たな。」
(S)「あ、そっか。」
(F)「それよりかさ。ナレーターが説明してるとき戸が開くときの音したやん。あれ、よかったわー。家の感じがすごく出てた。チリンチリンと鳴ってから、人が入って来るまでの間合いが絶妙。」
(S)「あれは第2幕のナレーターの石原さんが読みながら自分でカウベル鳴らしてたんだよ。」
(F)「そうなんや。とにかく人の入って来る気配がリアルにしてん。距離感が感じられたな。あの舞台で聴いた音の中で一番心地よい音やった。」
(S)「えらいほめるなぁ。」
(F)「注文もあるで。ベルの音一つであんだけ家の広い感じが出せるのに、2階や。2階が2階の感じせえへんかってんな。2階部分は造り自体がちょっとだけ高なってたよね。」
(S)「なってた、なってた。ドラマリーディングやけど、家の間取りは再現したいねとなって、間取り図を演出のソンさんが書かはってん。玄関、廊下、離れ、庭みんな決めて、気持ち高くしたり低くしたりしてあったんよ。」
(F)「そら決めるのはええけど、2階は2階に感じられへんかったで。人が上がったり降りてきたり、上に向かって呼び掛けたりしてたけど、なんか中途半端やったなぁ。お客さんから見てそないに見えるかどうかやん。そこが大事ちゃうん?」
(S)「なるほど。それこそ『間』とるとか声の大きさ変えるとかせなあかんかってんね。」
(F)「そやな。ま、ちょっと文句は言うたけど、全体に面白かったよ。平面やと予想してたものが立体やったという意外性やな。」
(S)「平面ていうのがフクちゃんが想像してた朗読のこと?」
(F)「そうそう。幕が進むにつれてどんどん演劇になっていったやん。観ているものが立体化していった。役者さんたち、しまいに本読まんと、役になりきってたもんね。演劇になってたから。あー。せやから朗読ちごて朗読劇っていうてるんやと思った。役者さんの熱を感じたよ。」
(S)「熱はどのあたりに?」
(F)「そら最後。出動命令出たし、決闘あったし、思いがけないすさまじいことになっていったやん?」
(S)「うんうん、私も自分の出番が済んで席に戻ってから、4幕の最後観るの毎回楽しみやった。①相馬と②晃の演技が迫力あって凄かったよね。③三姉妹と対照的で。照明も音響も派手になるし。」
(F)「私、チェーホフの『三人姉妹』読んでから観に行こ思てて、結局読まんと行ってんけど、もうチェーホフの方は別に読まんでもええかなと思てる。『外地の三人姉妹』で充分やわ。」
(S)「翻案劇やからね。大きくは原作を踏まえてるねんけど、朝鮮や日本の事情に合わせてオリジナルなとこも多かったかな。『外地の三人姉妹』観たらチェーホフの『三人姉妹』がよりわかるかもって、アフタートークで筒井潤さんが言うてはった。」
(F)「そうなんや。ほんなら読んでみよかな。チェーホフも。」
(S)「うん。役者さんで印象に残った人いてる?」
(F)「そら、サッちゃんやろ。どんだけハラハラして観てたか。」
(S)「いやいや、そら身内みたいなもんやからそやろうけど、私はええよ。役者ちがうし。」
(F)「ま、そう言わんと。よかったで。おサヨはんがぼけてはんなり大阪弁しゃべってるとこなんか。」
(S)「ありがと。ほんま恥ずかしいわ。で、ほんまもんの役者さんやったら?」
(F)「そら、何といっても④ソノク。あのたどたどしい日本語は完璧やったね。私の知ってる韓国人の日本語そのものやったわ。『ジュンチャンガ』っていうソノクの声今でも思い出すもん。」
(S)「ソノクよかったね。」
(F)「あとは⑤千葉さん。うまいし面白かった。でも、どの役者さんもみんなよかったよ。それぞれリアリティがあって役になりきってた。机とかつい立てとか置いてある家具もレトロでよかったね。」
(S)「あれね、劇場が明倫小学校やった時代から使てはる備品を借りてん。」
(F)「そう。ええ劇場やったね。大体、大阪人にとったら、京都はもう向かうときから、プチ・ツアーみたいな感じで、ちょっとワクワクしてて、いざ劇場に着いたら、あんな古い小学校を再利用してる場所やん。二宮金次郎像はあるは、廊下に油引きの匂いするは、懐かしい雰囲気でウワーと思たよ。大阪も前はあったよねぇ、観に行ったよね、芝居。」
(S)「精華小劇場ね、そう橋元市政で潰されたとこね。もったいないことしたよねぇ。京都はその点建築物をちゃんと保存してるからすごい。」
(F)「何の違いやろね。京都と大阪。」
(S)「大阪がんばらなあかんなぁ。ほかになんかない?」
(F)「そやね。うん。ほんま観に行ってよかったって思ってる。また次、観てみたいという気持ちになったよ。もういっぺんじっくり観たい。ドラマリーディングも観たいし、ほんまの劇としても観てみたい。」
(S)「そう。ドラマリーディングの再演は聞いてないけど、ほんまの劇にはなるねんよ。ソン・ギウンさんが12月に神奈川で多田淳之介の東京デスロックと一緒にやらはるねんて。」
(F)「そうなん。東京は遠いなぁ。サッちゃんは観に行くん?」
(S)「行きたい。せやけどコロナ・ウィルスの感染がどないなってるか。」
(F)「ほんまやなぁ。年末か。どないなってるやろ。今は私の楽しみの美術館も閉まってるしコンサートもないし、息苦しいね。」
(S)「早く収束してほしいね。最後に何かどうぞ。自由にしゃべって。」
(F)「えー。そうやねぇ。ほんなら直接の感想やないことで、感じたこと言うてええ?」
(S)「もちろん。」
(F)「サッちゃんが去年オーデイション受けて通ったんやけど全然なんもないねんてのんびり言うてて1月の終わりから急にバタバタし出して、毎日血相変えて自転車漕いで駅にダッシュしてたん覚えてるねん。今日は夜の10時までやぁとか言いながら走ってたやん。」
(S)「そうそう。けっこう毎日やった。」
(F)「ちょっと余裕ありそうなとき『どんな稽古してるん?』て聞いたら『まだ稽古してへんねん。本が完成してないし、言葉とか中身についてディスカッションばっかりしてるねん。』言うてたやん。」
(S)「言うた、言うた。ほんまにそうやったもん。」
(F)「私それ聞いて、サッちゃんの高校の演劇部の公演とか観に行ってたけど、台本がまだできてないのに稽古始まってることがあるとか想像もせんかったから、驚いてん。芝居作りってみんなで本の中身を完成させるところからか始まるんやって感動したんかな。ああ、こうやってものづくりって進んでいくんや。ひとつのものを創りあげてゆくということはこういうことなんやって学んだ。」
(S)「よう見ててくれててありがとう。やっぱりフクちゃんは私の保護者やわ。そやっ。着物着なあかんってわかって、襦袢に半襟縫いつけててフクちゃんに泣きついたよねぇ。私裁縫苦手で。毎度のことながらお世話になりました。」
(F)「ほんまやー、あれちょっと夜なべ仕事やってんで。」
(S)「あー、二重三重にお世話になって、ありがとうございました。これからもよろしく。」
(F)「こちらこそ。またおもしろいこと誘てんな。」
脚注。
① 相馬=相馬亮治。『外地の三人姉妹』の登場人物。三人姉妹の家に出入りする20代半ばの陸軍中尉。末娘尚子に恋をするが受け入れられない。自分の部隊にニューギニアへの出動命令が下ったあと、尚子の婚約者のパク・ジテと決闘して刺し殺す。藤木力が演じた。
② 晃=浦林晃。『外地の三人姉妹』の登場人物。三人姉妹にとって唯一の兄弟。20代半ば。軍人の父の期待になかなか添えなかった息子。第1幕の後ソノクと結婚して夫婦となる。チェサンが演じた。
③ 三姉妹=『外地の三人姉妹』の登場人物。長女、浦林容子。20代後半。普通学校(朝鮮人の子どもが通う小学校)の教師。山下あかりが演じた。次女、栗山昌子。20代半ば。栗山銀之助と結婚し近所に住む。趙清香が演じた。三女、浦林尚子。19歳。昨年女学校を卒業した。田中沙穂が演じた。
④ ソノク=トン・ソノク。『外地の三人姉妹』の登場人物。この地域の日本に協力的な朝鮮人有力者の娘。18歳。三人姉妹の兄弟晃の恋人として登場し、第1幕の後は晃と結婚して夫婦となる。「ジュンチャン」は長男のこと。カン・ユミが演じた。
⑤ 千葉さん=千葉哲夫。『外地の三人姉妹』の登場人物。50代の陸軍軍医。官舎に住まず三人姉妹の家
の離れで暮らしている。第4幕では退役している。山口吉右衛門が演じた。

撮影:石井靖彦
【3】最後に
ACT26号の記事「誰かを舞台に連れていく(1)」によると、本企画は「舞台関係でない方に舞台作品を観てもらい感想を聞いてみようという」もので「関係者の中でだけ議論をしても、閉じた空間でのマニアックな話になってしまいかねないため、普段舞台を観ない方からの新鮮な視点での感想を聞いてみたい」という思いから始まったそうである。
その第2弾を書くとなったとき、自分が舞台関係の人間と思えないことから、上演作品について五十歩百歩の、ほとんど素人同士の会話を読んでいただくことにしかならないだろうと不安を抱いていた。ところが、今回の対象公演の『外地の三人姉妹』は、ひょんなことから私も出演者となってしまったので、これはもう関係者であることに間違いない。だから本来の趣旨通りになったはずなのだが、しかし文章にしたものを読み返してみると、いかにもインタビュー慣れしていない人間同士の普通の会話である。今回の語り手のフクちゃんは美術鑑賞や音楽鑑賞が趣味で、観劇後強く印象に残っていたのは、やはり聴覚的な要素と視覚的な要素であった。フクちゃんは楽しく自由に語ってくれたが、聞き手の私の非力ゆえにフクちゃんの感想をさらに掘りさげたり膨らませたりできず終わったのが申し訳ない。
また、舞台関係でない一般人代表のフクちゃんではあるが、今回の『外地の三人姉妹』に関しては全く無関係だったわけではなく、私が素人ながら出演することになって泡を食ってバタバタしているときにずっと見守り応援してくれていた。そういう意味では少しだけ関係者であったとお断りしておきたい。そして、1ヵ月にわたる私の言動の観察と舞台本番を合わせて、紙に書かれた戯曲が舞台で上演作品として立ちあがっていくとはこういうことなのか、それがよくわかって感銘を受けたよと言ってくれたのが嬉しい。ふだん芝居を観ない大阪のおばちゃんだろうと本質を感じとる心の力はすごいのであった。
話は変わるが、フクちゃんと私が育った大阪の鶴橋という町は、かつては猪飼野という地名で呼ばれており、「日本国猪飼野」で朝鮮半島から手紙が届いたというほど有名な昔からの朝鮮人多住地域である。今は韓流ブームでコリアタウンとして観光客で賑わっているが、私が子どもだった1960年代にはまだ戦争のきな臭さの気配が残り、駅前では白衣の傷痍軍人が物乞いをしていた。日本人も朝鮮人も皆一様に貧しくて大人たちは生きることに精一杯だったが、子どもらは朝鮮人も日本人も混じりあって外を走り回って遊んでいた。時々一串くれた屋台のホルモン焼きのキショウのおばちゃんのなまりもなつかしい。ソノクの日本語のなまりを完璧だとフクちゃんがほめて私も深く同意したゆえんである。
私は『外地の三人姉妹』の制作に関わってソン・ギウンさんや仲間と何日も話し合いを重ねるなかで、自分の子ども時代まだ日本人の意識に根強くあった、いわれのない朝鮮人差別の根源が、まさに1930年代も続いていた日本の朝鮮に対する植民地支配にあったと感じた。それがもしかするとフクちゃんにも伝わるかもしれないと期待したが、それはなかった。戦前、戦中の外地での諸事情を理解するのは作る側にとっても難しかったが、観客にとっても一筋縄では行かないことだったということだろうし、戯曲の問題でもあったかもしれない。今度機会があったら、京都の東九条で生まれ育った浜辺ふうが作、演出をつとめる「九条劇」をフクちゃんと一緒に観てみたいなぁと考えている。朝鮮人と日本人の混在する町に生まれ育ったという、私たち二人の生育歴に共通した問題意識を抱える若手演劇人の舞台を観たとき、私たちにどんな対話が可能だろうかと思うからである。
内側からみた『外地の三人姉妹』
山﨑達哉

撮影:石井靖彦
ソン・ギウン作(石川樹里翻訳、浮島わたる翻訳協力)のリーディング公演『外地の三人姉妹』は、A・チェーホフの『三人姉妹』を元にした新作である。場所を朝鮮半島北東部の都市・羅南に駐屯している日本人の屋敷に、時代を第二次世界大戦前の1935(昭和10)年から大戦中の1942(昭和17)年までに設定している。
本公演は、大阪大学大学院文学研究科が主催する「徴しの上を鳥が飛ぶ—文学研究科におけるアート・プラクシス人材育成プログラム」の一環として行われた。これは、アートマネジメントを学ぶ方のための講座で、多くの社会人や学生が参加していた。公演においても、3名が出演し、6名が制作業務を担当した。出演の3名のうち、1人は俳優経験があったが、他2名はこれが初舞台となった。筆者はこの公演に様々なファシリテート役として関わったため、ソン・ギウン自身の行動や思考を探りながら、上演そのものではなく、作品ができるまでの過程とその間に起きたことなどについて、書き留めておきたい。
『外地の三人姉妹』の出演者は上記の受講生の3名を含めた14名。これにソン・ギウンを加えた15名が上演に向けた稽古の期間に過ごした時間は、振り返ってみると濃厚であったのではないだろうか。14名の俳優には、韓国から上演のために来日した方、在日コリアンの方(「在日」とは一括りにできないくらい様々であった)、日本の方など様々であった。国籍や出身に関係なく、それぞれが可能である(得意とする)言語が様々で、日本語と朝鮮語・韓国語が飛び交う稽古場となった。このことは『外地の三人姉妹』の上演に大きく影響したといえる。それは、ソン・ギウン自身が非常に言語にこだわりを持つ人物だったからである。
ことばへのこだわりは様々であったが、まず作品にも出てきた「方言」がある。『外地の三人姉妹』では、日本語と朝鮮語・韓国語を中心に使用していた。その他にもエスペラントや、簡単な英語、ドイツ語、ロシア語なども登場した。さらに、日本語では大阪弁や山形弁を採用し、劇中で使われていた。また、朝鮮半島北東部の羅南地方の方言も使われた。
このようなことばへのこだわりには、ソンの「標準語」への疑いが考えられる。「標準語」はもともと存在していなかったが、ほぼ同一の言語を話す人同士が共通の言語で会話できるよう、採用され、基本的には中心となる都市(東京、ソウルなど)のことばによって整理されたと考えられるものである。一方で、東京やソウルなどで話されていたことばにも方言があったと想像できる。他にも書き言葉と話し言葉の違いも考えられる。いずれにせよ、舞台上で話される言語を耳で聞くという、演劇ならではの上演/観賞方法のために、発話されることばには非常に気を遣っていたのであろう。そのため、少しでも方言を取り入れた表現を行おうとしていた。そのことが、台本を超えて口語的な会話表現になっていたのかもしれない。もっとも、ソン自身は山形弁だと何を言っているのかわからない状況だったらしく、日本人の俳優に問題がないか適宜確認していたし、日本語を母語としない観客にとっても、大阪弁や山形弁はわかりづらいものだったようだ。羅南地方の方言も、ソンや韓国の俳優たちにもわかりづらいもので、音で覚えて上演に向かったという話であった。
このように、わかる・わからないの問題はあるが、全てを聞き、理解してもらおうとしないところにソンのねらいがあるのではないだろうか。実際、エスペラントで重要なセリフのあった場面では、字幕にて意味を表示していた。方言や外国語を多用しつつも、劇そのものには影響がない程度に抑え、劇の進行を妨げないように、感覚と理知とのバランスで計算ができていたように思える。
さらに驚いたのは、翻訳前の時点で既に、日本語らしい表現を使い脚本を韓国語で執筆していたことだった。また、日本語にある曖昧さや責任の所在が不明瞭な表現なども反映されていた。ソンは東京外国語大学への留学や、日本人演出家との仕事など、日本語を学ぶ機会は多かったとはいえ、日本語を母語としない作家がそこまで考え、さらに実現できるということに感心した。
稽古においては、俳優と読み合わせをする際にも、日本語の確認は何度も行われた。表現としてわかりづらくはないか、日本語として間違ってはいないが別の表現が良いのではないか、時代背景や場面設定においてズレは生じていないか、歴史や事実との齟齬はないか、上記のような方言の表現に問題はないかなど、様々な確認を俳優と議論をしていた。俳優もそれぞれが、ソンから与えられる疑問に答えられるよう、考え、意見を言うことが多かった。
翻訳された台本であるため、書きことばを話しことばにいかに変換していくかという作業だったとも言えるが、それをソン個人で進めるだけではなく、俳優と共有しながら、議論をして進めていた。また、リーディング公演を行う以上、基本的に発話のみで舞台が進行するため、舞台美術などでは表現できない部分をいかにことばで伝えることができるか、観客に想像させることができるかというところに気を配った結果といえる。俳優も与えられたテキストをそのまま読み、声に出す以上に、ことばや表現に気を配ることになったのではないだろうか。徐々にこの進め方に馴染んでくると、俳優の方からも意見が出る機会が増え、台本のひとつひとつのことばを噛みしめるように、全体の読み合わせが進んでいった。ここでの書き言葉から話し言葉への変換には、翻訳をしつつも上演に耐えうる表現を生む必要があるため、浮島わたるの協力が多大であったといえる。
この議論や意見交換の際に、ソンは一人一人の意見を決して無駄にせず、初めから終わりまでしっかりと聞き、納得がいくまで話し合っていた。最終的な判断をするのは作家であるソンであったが、対話をしやすい環境をつくっていた。読み合わせの席がロの字になっていたのも大きいかもしれない。
このように対話のしやすい環境づくりは読み合わせの前からも行われていた。俳優同士の簡単な自己紹介はあったが、稽古の日にはまず簡単なワークショップから始まっており、これが対話のしやすい環境づくりに寄与していたと考えられる(ソン・ギウンもワークショップには参加していた)。
■山﨑達哉(やまざき・たつや)
大阪大学大学院文学研究科。アート・プラクシス人材育成プログラム事務局
