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古後奈緒子■映像アーカイヴに探る未来~コロナ禍の中で見た『レミング』『SHARE』『緑のテーブル2017』
上念省三■4月からの二か月半~劇団とっても便利『美しい人』、劇団年一『肌の記録』、チーズtheater「告白」、『いいむろなおきマイム小品集』
瀧尻浩士■不自由さを楽しむ――災禍から生まれた祭り~劇場の灯を消すな!シアターコクーン編  松尾スズキプレゼンツ アクリル演劇祭
藤城孝輔■無邪気さとプロパガンダ――こまつ座『きらめく星座』

古後奈緒子■映像アーカイヴに探る未来
​     ~コロナ禍の中で見た『レミング』『SHARE』『緑のテーブル2017』

Kogo
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​アンサンブル・ゾネ『緑のテーブル2017』
デザイン・クリエイティブセンター神戸 KIITOホール
撮影:吉井秀文

 私たちが日々目にする眺めの中には変わらないものも移ろいゆくものも混在しているが、目下、後者に焦点が結ばれているのは確かだと思われる。実際この半年、私たちは目まぐるしく変わる状況へ身を処してきたし、その間、情報やモノがつくる環境と私たちの身体はマスに、そしてミリ単位で影響し合ってきた。距離の取り方から覆いの着用まで、身体という複数の論理がせめぎあう境界上で私たちはつながっており、各々がまるで網の結び目にいるかのように動き方を探っている。危惧されるのは、COVID-19の解決がもたらされたとして、私たちが手放さないであろう機器や装備が新たな網となり、細々したやりとりの知恵を蓄えた社会的所作が失われていくだろうということだ。
 アフターコロナに尾を引くより大きな懸念として、目下舞台芸術関係者が対応を迫られているのが、仮想空間への移住である[1]。劇場育ちを自認する筆者は、当初暫定的な避難は不可避くらいに構えていたのだが、COVID-19に拘わらず社会全体で推進するという大きめのヴィジョンが政府により示された [2]。ここで前後してリリースされた言葉のセットが、「新しい」といった穏健なものに「進化」「不可逆」といった強迫的なものを取り混ぜていることに注意したい。確かに芸術の歴史は技術の探求とともにあったし、これまでITの導入に成功しなかった諸領域で遅れを取り戻す好機ではあろう。ただ、社会が複数の綱を手に均衡を取りながら動く個々人からなること、そしてそのような社会の網目にいることを身体感覚で知った私たちが、一本の綱の上に乗れと言われたら怖いし、その綱が古びた物差しというのも困ってしまう。言うまでもなく、災禍の後には取り戻すべき日常があり、劇場文化はそこに含まれる[3]。
 困った時は、モノと身体が関わる歴史に拠り所を求めてみよう。現在の状況把握にしばしばパンデミックの歴史が参照されるが、舞踊史スコープを覗けばダンスが被るIT化は、19世紀末から第一次世界大戦にかけて進められた電化と比べてみることができるかも知れない。劇場のそれは、舞台上を安全に明るく照らすことにもまして、客席暗転により第四の壁をマジックミラー化し、舞台と客席、虚実の分離を完成した。一方で、この技術をマスターしたモダンダンスのパイオニアたちは、ダンス客の視線を女体から衣裳と身体運動が描く軌跡へ誘導し、舞踊家に芸術家としての法権利や地位を遺した。大都市に集中した機能の分散もアフターコロナの一般課題とされるが、同様の社会的な権利や資源の再分配につながる動向は、ダンスとIT化の試みの中にも見いだしてゆけるだろうか。
 以上のような関心から、緊急事態宣言の最中に公開されたダンス映像の中に示唆を求めたい。膨大なダンスの映像アーカイヴの唯一画期的な点は、これまで出会ったことのない遠く隔てられた人、モノ、場所を結びつけ、古いとか新しいといった広義のモダニティに準ずる時間、ひいては空間の秩序を揺るがせることにある。空間に関してはコロナ禍以前から、劇場や芸術祭が組織する注視を、市場とマスメディアにおいて周縁化されてきた場所に振り向けることが意識されてきた [4]。時間についても、革新的な未来への欲望を再生産しようと古い夢に対し、その根底にある新旧対立の図式や、それらの前提にある進化の時間を相対化するような仕事がある。

[1] IETM-Report performing arts in times of the pandemic : status quo and the way forward アンケートの報告書[https://www.ietm.org/en/publications/performing-arts-in-times-of-the-pandemic-status-quo-and-the-way-forward]
給付金の次に打ち出される文化の助成金の多くは、言葉は様々だがデジタル・ミックスとでも言うような、情報技術を絡めたものが目につく。

[2] 総務省 令和二年版「情報通信に関する現状報告」(情報通信白書)では、「2030年代の我が国の社会像」として、「人の生命保護を前提にサイバー空間とリアル空間が完全に同期する社会へと向かう不可逆的な進化が新たな価値を創出」するヴィジョンが示されている。

[3]身体の自由に基づく基本的人権に政府が「要請」以上の措置をとった国では、すべての権利がコロナ以前の状態に戻されるまで注意が必要とされている。Christoph Tuercke. Fracksausen__Die einen wittern Verschwoerung, die anderen versachen vor dem Bildschilm. In: Ballettanz. 2020.07. pp.10-13. 

[4]この傾向は1990年代に、文化のオリンピックやマーケットでなく「出会い」の場であろうとするバニョレ振付コンクールの方向転回に続いて欧州のダンス関係者に共有され、ライブとリモートを組み合わせたフェスティバル運営でラディカルに実践されている。Arnd Wesemann. Beste Botschafter. In: Ballettanz 2020.03. pp.10-13

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Monochrome Circus『レミング』 撮影:坂本公成

●  フェスティバルの空間とダンスを分け合う知恵 「京都の暑い夏」

 

 今年25周年を迎えた京都国際ダンスワークショップフェスティバル(通称「京都の暑い夏」)では、すでに開始していた募集の停止から開催の可否判断まで迅速に対応し、3月20日に延期の判断を発表した[1]。このフェスティバルの特徴として、ダンサーがイニシアチブをとり、関心と経験に応じてプログラムや運営に関わってゆく点が挙げられるが、延期後も主宰の坂本公成&森裕子両氏を中心にミーティングを重ね、メインの開催期間中に4つのプログラムをYouTubeで配信している[2]。リリースされた映像は、「踊ることを励ます」ためダンサーたちが考えたものとされ、同じ頃見られるようになった過去の記録公開やリモートのダンスレッスンとは一線を画している。ちなみに両氏はモノクロームサーカス名義で、元出演者のSNS上のつぶやきに応えるかたちで、パンデミックを主題とした作品『レミング』をvimeoに公開している。こちらは、人と人を救いもするし捕らえてもいるネットワークが、地球を覆う一つの「網」をなす事実を刻々可視化してゆく作品だ。ライブと記録映像で体験の質は違うだろうが、この網は第四の壁を越えて身に迫ってくるもので、コロナ禍の身体感覚を表す比喩を与えてくれた。以下にはコロナ禍の今ここを超えて時空を混ぜるかに見える「Dance in Frame」と「Dance Relay Video “SHARE”」について見てみたい。
 4月27日から10日間、毎日正午にリリースされていった「Dance in Frame」は、表面上は、DIY精神に溢れる「ダンス・ビデオ」制作のアイディア共有と参加の呼びかけに見える。もちろん、単に自分のダンスをスマートフォンで記録することや、気の利いたセルフィー動画の投稿をダンサーに呼びかけているわけではないだろう。まず、わざわざ「ビデオ・ダンス」を言い直しているように、ヴィデオダンスやスクリーンダンスと呼ばれるような映像作品[3]は意図されていない。ダンスと映像どちらが最終的に物事を決めるか、どちらのジャンルの歴史や手法をより参照し、どちらのプラットフォームで発表するかといった従来の関心事に加え、目下そこには、劇場文化の危機を分ける現実と仮想空間の境界が横たわっている。先頭をきった坂本と森の回「ムーブメント・イン・フレーム」を見れば、まずは軸足をダンスに置く探求であることは明らかだ。二人はカメラの前に画面と同じ比率のフレームを手に、部屋の中で自分が「ダンスと思うもの」を探索することから始めている。
 ここで思い出されるのが、コンタクト・インプロヴィゼーションを主体とした両者のワークショップでおなじみの、同様のワークである。参加者は両手でフレームを作り、視覚とその対象に意識を置いて空間における運動感覚と連動させてゆく。この企画では紙のフレームを一気に、見る/見せる機能を備えたスマートフォンのそれに持ち替えて、空間における自身の身体から最終的に画面上に結ぶ像へとダンスの知覚を伸ばして行く。ある意味、フレームに託したジャンルの境界を遊戯的に往き来することが、身体の内外の意識に関わる具体的なタスクに落とし込まれていると捉えてよいだろう。このようなダンスへのアプローチは、規範的な他者と鏡に映る自分を見比べて踊りを習得してきたダンサーにとって、多くの発見をもたらすだろう。というのもこの過程には、ダンスの枠組みを自ら設定してゆくこと、自らの身体感覚をメディアに外化してゆくことが含まれ、少なくとも創作へと移行する際必要になるダンス観、表現の自立を内から促すであろうから。後に続く個性的な9つの「提案」を見れば、それらはすでに、各々違う身体違う行程で鍛えられた統覚で世界を見るdance eyeの多彩な記録でもある。さらに、今後しばらくはSNSマーケティングと結びついたチャンネル上で、身体をスペクタクルとする種々雑多な映像の交通量、ひいては付加価値をめぐる競争が激化することが予想される。その過程に組み込まれた16:9のフレームは、舞台、映画、テレビから諸々の問題を引き継ぎ、いまだ生身の身体を祭り上げては犠牲にするシステムと私たちを、接続しながら隔てている。その界面を掌中にし、両側を遊戯的に往き来するタスクは、このシステムに対する戦略を練ったり、抵抗力を身につけたりするのに役立てられるのではないだろうか。
 以上のように、筆者はこのワークショップフェスティバルの細部に、構造化した社会関係を組換え流動化する契機を見いだして飽きることがない。要点は注目を生みだすと同時に、視線の集中によって得られた権力を様々な回路に再分配し環流させてゆくバランスアクトなのだが、そのことと関連して思い出しておきたい風景がある。まずはDance Relay Video “SHARE”[https://www.youtube.com/watch?v=f4diDlSJU1U]をご覧いただきたい。おそらく、ダンサーたちが共有しているルールのようなものを難なく見つけられるだろう。それは、フェスティバルが始まった25年前、モノクロームサーカスが行っていた「ポータブルダンス」のレパートリーの基本構造に通じている。当時彼らはダンスを「出前」するというコンセプトで旅をしながら、文字通りどこでも踊っていた。それこそ狭小な個人宅からパリのポンピドゥーセンターに至るまで。どの都市でも路上で踊り、踊れば通行人が足を止めてギャラリーになり、ギャラリーの一部がダンサーの振りをシェアしてその列に加わる。ここまでなら物理的境界のない路上パフォーマンスではよく見られる光景だ。この光景に再び “SHARE”を重ね、入れ替わるダンサーの背後に、先頭にいる人に倣うゲームをしているダンスフリークたちが数珠つなぎになっていると想像いただきたい。彼らは振りを共有することでかえって個性が際立つコーラスラインの先頭で、暫定リーダーを順に務めてゆくのだと。傑作なことに、このパフォーマンスが路上で行われるとき、拍手喝采をさらうのはプロではなく、うっかりダンサーの列に取り込まれた元通行人である。彼女あるいは彼は来るべき運命と法を知り、一瞬慌てるが、いざ先頭が回ってくると自分の中から振りをひねり出し、たどたどしくも役割を全うする。そのとき注目と賞賛のウェーブが、ギャラリーの壁を輪にして辺りに広がってゆくこともある。公共圏の成立や権力の分散という観点から意義深いのは、この間元通行人が、スペクタクルの制度空間に埋め込まれている境界をいくつも踏み越え、同時に劇場なら彼には回ってこない役——そもそも舞台上に立ったり、ピンスポットをあてられたり――への変容を幾度も経験することだ。世界各地の大/小、公/私、リアル/ヴァーチャルな異次元空間を結びつけ、いつでもどこでもどんな天気でも踊ることができるという、これはダンサーたちのマニフェストである。そして、彼らの流儀を見つけた者なら誰でも、彼らに連なることができる。そうしたやり方で「踊ることを励ます」試みとして、“SHARE”は、ローザスの『Re:Rosas』やバウシュの『カーネーション・ライン』といったダンス映像の系譜に連なるように思われる。

[1] ダンスアンドエンヴァイロンメントのウェブサイトにおける説明「新型コロナウィルス感染拡大に伴う京都国際ダンスWSF2020開催延期について」https://hotsummerkyoto.com/news/新型コロナウィルス感染拡大に伴う京都国際ダン/

[3] 2009年のトンミ・キティ×藤本隆行(E-1)、飯名尚人(E2)を講師とする「メディアとダンス」プログラム以降、このフェスティバルはダンスの教育機会としてはいち早く、ヴィデオダンスや視覚メディアとのコラボレーションの専門家によるプログラムを提供してきた。

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『SHARE』 YouTube映像より

●  過去に探られた未来へのスパイラル アンサンブル・ゾネ『緑のテーブル2017』
 

 1990年代初頭から芦屋で活動を続けるアンサンブル・ゾネは、緊急事態宣言の只中にある4月下旬より、カンパニーで共有するダンスメソッドを映像にしてYouTube上でリリースし始めた。折に触れ語られてきたように、フォルクヴァング大学で研鑽を積んだ岡登志子氏が、ドイツ表現主義で培われた舞踊家育成の方法論をアレンジしたものである。当初は自宅でのレッスン補助の意味あいを持っていたであろうこの試みは、自粛要請が解かれた後も続けられ、8月現在42を数えるアーカイヴになっている。これとは別に5月下旬には、年頭に亡くなった大野慶人氏をフィーチャーした『緑のテーブル2017』の映像を公開することが告知された[1]。こちらはvimeoで、6月1日の大野一雄氏の10回忌に一日限定公開とし、続いて、両氏の舞踏に捧げた『Song of Innocence無垢なるうた』のショートムービー[https://ensemblesonne-news.jimdofree.com/event/]も公開された。この二つは偉大な舞踏家へのオマージュであるにとどまらず、モダニズムの歴史と時間のオルタナティブを示してもいる。
 創作の発端となった故大野一雄は、師事した江口隆哉・宮操子夫妻からクルト・ヨースの『緑のテーブル』について繰り返し聞かされたといい、その意味でモダンダンスだけでなく作品初演時の記憶の継承者でもある。一方、最も大成したヨースの継承者であるバウシュの仕事に触発され、彼女と同輩のジャン・セブロンが教えるフォルクヴァング大学に学んだ岡は、近年大野慶人と仕事を重ねており、その意味で日独両方で語り継がれた作品の記憶の交わる点に位置している。『緑のテーブル2017』はそうした歴史的連関の中にあるアウラを備えた岡と大野慶人のために、NPO法人ダンスアーカイヴ構想が委託してリメイクされたものだ[2]。東京、名古屋、神戸と再演を重ねた本作は、今回の映像公開を背景に、これまで目立たなかったパンデミックに絡む含意も思い出させる。以下に翻案元のヨース作品の構成を踏まえた上で、『緑のテーブル2017』のコロナ禍の現在における意義を考えてみたい。
 ヨースの『緑のテーブル』は、第一次世界大戦の記憶も生々しい1932年に、新たな戦争の始まりを察して制作された。緑のテーブルを囲んだ紳士たちの踊りは、軽快なタンゴの調べとともによく知られている。両大戦間の芸術作品は中世を参照するものが少なくないが、本作もペスト禍を背景とする死の舞踏の図像を源泉としている。死の舞踏は一般に、大鎌を手にした死神に続く聖俗、貧富、老若男女の行進を描き、いつ誰をも襲う「死を想」い(メメントモリ)、地上の富を手放せと説く。この教えに忠実なのが、スペイン風邪と第一次世界大戦の打撃を押して創立され、今年100周年を敢行したザルツブルク演劇祭の『イェーダーマン』だ。これに対し『緑のテーブル』も、兵士たち、母、恋人、娼婦たち、パルチザンの女、利得者が戦争の各局面を演じた後、死神に連れられ退場するが、その後に冒頭の「緑のテーブル」会議が繰り返される。つまり戦争開始を決める当の者たちは、その渦中の外にいて死を免れる。こうした風刺は、2017年のリメイク時より危機下の現在のほうがリアルかも知れない。同じ主題に繰り返し戻る時間構成や創作サイクルは、輪舞とともにラバン門下の作家の創作によく見られる。それは進歩を称揚する近代への横槍のようにも見えるが、啓蒙のプログラムは戦争に中断されるのか、理性の光に従った先に野蛮へと突き進むのか定かではない。
 岡のリメイク版は、このヨースの主題と構成を踏襲しつつ、今の時代に響く大胆な現代化を行っている。まず目を見張るのは、各人物に割り当てられた振付と解釈のアクチュアリティだ。例えば「死神」のソロは、原作と同じ運動モチーフを用いながら、アンサンブル・ゾネのメソッドとは異質な――エネルギーの配分的にはモダンよりポスト・モダンダンスに近い――垣尾の記銘性のあるスタイルで演じられる。そうすることで、兵士と親近性のある運動の質で演じられた戦間期とは、現代社会における死の所在が異なることに気づかせる。パルチザンの女の振付も印象的で、意気揚々と掲げた人差し指が描く軌跡は、私たちの社会で声を上げる女がどのように黙らせられるかを示してリアルである。そして原作では兵士との関係に置かれていた女たちの中で、むしろ荒波に揉まれる小舟のように逃げ惑う難民の姿に焦点があてられる。この役は岡が踊っているのだが、複数の極性間の運動スケールを意識させるメソッドを解釈し歳月を重ねたその演技は、境界上で多重拘束に引き裂かれる剥き出しの生とはかくや、と思わせるものだった。
 この上特筆すべきは、再演時にバウシュが演じたことで知られる「母」を大野慶人に配し、そこに「風」という新しい役を重ねた意匠である。「母」は洋の東西を問わず反戦の象徴だが、冒頭で戦争体験者として意見表明した大野の姿には、モダンダンスから舞踏に至る様々な「母」のイメージが去来する。「ダニーボーイ」と踊られる「風」もまた、戦中戦後の淀んだ空気を動かそうとする舞踊史上の試みを思い出させる。大野の踊りが起こす風は、アンサンブル・ゾネのダンサーたちの呼気で増幅され、最後にもう一度呼び出される。そのとき大野を中心に全員が踊る力強い輪舞は、テーブルを囲んだホワイトカラーのそれよりさらに大きな輪を描き、原作における災禍のループを変革の輪に付け変えるものと見える。
 以上のように、ヨースは死の舞踏を書き換え、死の前に平等などではない人間社会のシステムを浮かび上がらせた。対して岡はヨースの寓意をさらに上書きし、シニシズムを脱する時空の輪を加えている。その手つきは、1970年代のバウシュがヨースと同時代のバレエを文字通り作り直し、最終的に解体していった際のそれと呼応する。例えば犠牲を英雄的な行為としてスペクタクルに反復するのを止し、むしろダンサーの身体から出た細かな所作を大切で慈しむべき「手の仕事」と気づかせる。その際、黒服/加害者の中に女性、恋人・娼婦/犠牲者の中に男性が混ざって役のジェンダーのステレオタイプを演じることで、原作の二値的な性分業には疑問が付されている。このように差異の生産に積極的な意味を見いだす過去作品の反復を、近年リエンアクトメント(再現・再行為化)と呼び、原作に忠実な復元や再演から区別する。ヨースが再帰させた軌道をずらせ、バウシュを彷彿する輪舞につなげた本作は、過去の作品を顕彰しながら、螺旋を描くように野蛮から遠ざかろうとする祈りのようにも思われる。

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[1] アンサンブル・ゾネ「緑のテーブル2017」【1日限定公開】https://ensemblesonne.com/ticket/index.html

[2] 制作をめぐる事柄については、大阪大学全学共通機構の授業「マチカネゼミ」の学生が、『緑のテーブル』公開を受けて行ったグループワークにもとづくインタビューを踏まえている。

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●おわりに

 人間の身体は柔軟だが、一度外化された言葉やモノは環境化し、身体はそれに従い適応しようとする。その変化が進化か退化かと測っているうちは、私たちは近代の神話を内面化し外化するというループの中にいる。過去数十年、近代の神話を批判しながら私たちが学んだのは、投企的に未来を思い描くことはできないという戒めではなかったか。未来は眼前の机の上ではなく、振り返った過去の行為の残滓にしか見いだせないのだ、と。そこで見えるのが廃墟か、緑生い茂る大地であるかは、私たちがどのように呼吸し、手を動かすか、そして何に視線を注ぐかにもかかっている。円の先頭にいるに違いない死者の踏んだ轍をどう踏み直してゆくかが、災禍のループを祝祭のそれにつけかえられるかにかかっている。過去の影像の中の二つの輪舞を見ながら、そのようなことを考えた。

古後奈緒子(こご・なおこ) 大阪大学大学院文学研究科准教授。舞踊史研究・舞台芸術批評

上念省三■4月からの二か月半~劇団とっても便利『美しい人』、劇団年一『肌の記録』、チーズtheater「告白」、『いいむろなおきマイム小品集』

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(C)劇団とっても便利2020
撮影:溝口理香

 数少ないミュージカル劇団、とっても便利の『美しい人』をどうしても観たかったのは、元宝塚歌劇団雪組トップスター高嶺ふぶき(のちに芸名を「たかね吹々己」と変更)の最終公演になると聞いたからだ。槍が降ろうが、石にかじりついたまま這ってでも行くつもりだった。
 高嶺のことは、1994年の『風と共に去りぬ』のアシュレ、『雪之丞変化』のお初、あたりから、鮮明に覚えている。『エリザベート』(1996)でのフランツ・ヨーゼフ1世役も含め、ノーブルでシュッとした立ち姿が印象的で、対照的に女役お初でのあだで色っぽい姿が魅力的だった。トップになってからはわずか2作品で退団と、決して厚遇されたトップスターとは言えなかったが、最後の公演となった『仮面のロマネスク』(1997)のヴァルモンは、花總まりとの丁々発止のラブアフェアがスリリングで、宝塚の域ギリギリの大人の男のセクシーさに見ごたえがあった。
 退団後も何度か舞台で姿を見て、存在感の大きさや、歌がうまくなっていることに驚いていたが、歳月と共に当然のこととはいえシュッとした立ち姿は思い出の中に封じ込め、貫禄ある(関西の)成熟した女性としての現実を受け入れざるを得なくなってはいた。
 さて、4月12日と言えば、振り返れば「第一波」のピーク、一日の感染者数が743人を数えた当日で、4月7日には隣接する兵庫・大阪に、さらに16日には全国に緊急事態宣言、京都府は特定警戒都道府県に位置付けられるというさなかであった。しかも寒く、大雨。劇団からはほぼ現在定着している種類の対応策(座席をあけるとか、非接触体温チェックを行うとか)を行うという連絡が届き、「体調不良等、諸々のご都合によりご来場できないお客様には、全日程を対象にキャンセルを受付いたします」ともされていたので、様子を見てキャンセルせざるを得なくなった人も多かっただろう。劇場の入り口から受け付け、会場の周辺にも、得も言われぬ緊張感があったように思う。
 「人間を檻の中に入れて見せ物にする」ことから発想され、ホームレスの増加に悩む政府が、ホームレスの人々や後には政権に反抗の意思を示す人々を「美しい人」と名付けて、元美術館の「人間園」という展示施設に収容するという奇態な状況を描いたこの作品は、2002年に初演され好評を得ていたもので、今回は同劇団の25周年記念公演として再演された。
 物語の展開、主題の把握に、音楽が妨げとなっていないばかりか、そこに音楽があることによって劇のスピードが加速され、熱さが高まり、悲しみが深まるという点で、ミュージカルとして十分に完成していたといっていいだろう。歌い手として圧倒的なディーヴァ、ディーヴォがいるというのではないが、言葉を音楽に乗せてきちんと伝えられるという、ミュージカルで最も基本的で重要なことはできているのが好ましい。魅力的で個性的な役者ももちろんいるのだが、アンサンブルやコーラスの魅力によって進めていくタイプのミュージカルであり、スターシステムを取る商業ミュージカルでは、あまり見られない進み方だと言っていいだろう。
 この物語の醍醐味は、抑圧する側だった者がふとした拍子に抑圧される側に陥ってしまうこと、人々の残酷な気まぐれによるヒーローの失墜といった、人物の立場の大きな変化と、兄弟の関係、恋愛といった個的な関係性の激しく残酷な変化が、群衆劇(登場人物は50名近い)のうねるような動きや声の厚みによってありありと描かれているところにあった。
 抑圧-被抑圧が単なる対立の構図として終わるのではなく、被抑圧者の中で再びその構図が再生されるであろうこと、ヒーローがどのように作られ、引きずりおろされるかという、人間の集団に対して根本的に疑問を投げかける姿勢が、世界に対する真摯な向き合い方として、観る側の喉元にも刃を突き付けてくるような作品となった。
 観客も精神的にずいぶん追い詰められた感のある終盤になって、これまで度々託宣を求められてきた「大きな鳥」と呼ばれる国家の象徴として、高嶺は現れる。神の見えざる手でもあるまいし、とは思いつつも、ギリシャ神話のようなこの終わり方には、多くの人々の祈りが反照されており、貫禄というだけでは足りない、人々の意思の総体としての存在感が求められていた。発するオーラであるよりも、吸い寄せるオーラとでも言おうか。しかも最後にそれは鳥かごを出て飛び立っていく。象徴という名の拠り所をなくすことで、人々に真の自立を促し、自身の自由を獲得せよといわんばかりの、権力依存からの徹底的な離脱。
 高嶺が引退するのは、3月にわかった甲状腺がんの手術を控え、術後も日常会話は可能だろうが、これまでのような歌声を披露することはできなくなるからということだそうで、秋からは周防大島の旅館の女将になるらしい。スターであることを吹っ切って新しい世界に進むという姿は、非常に鮮やかであり、それこそ『雪之丞変化』のお初を思い出させてくれた。5月末に手術を受け、幸い転移もなく、声のリハビリや女将の作業着用の着物のリメイクに励んでいるとのこと(6月23日のブログによる)。
 なお、安倍晋三氏が『美しい国へ』を出版したのは、官房長官時代の2006年であり、この作品とは関係ない。にもかかわらず、この作品で語られる「美しい」は、現下の自称愛国者や似非右翼の方々、また与党の憲法草案を思わせる語り口で埋め尽くされ、観ている最中には、これは『美しい国へ』を揶揄した作品だと思っていた。
 ミュージカルがどれほど現在の諸課題に切り込むことができるか、それはミュージカル約100年の歴史の中で着実に深められてきたテーマだが、作曲・脚本・演出・出演の大野裕之がチャップリン研究と並行してミュージカル創作に取り組んでいることが、その切っ先を鋭くしている大きな要因でもあるだろう。
 大野の現在を、歴史を見る鋭いまなざしは、もちろんこのコロナ下という状況にも及んでいる。公演終了から約一か月ほどたって、彼はブログ「人間の大野裕之」に「人が交流するのが社会ならば、その社会には必ず感染症は発生します。感染症は社会そのものであり、それを完全に排除することは社会の死でもあります。人々が頻繁に交流すると感染症により命が奪われる/感染症を完全に封じ込めると社会は無になりそこでも多くの命が奪われる、そんな状況で、どうすればよいか、考え続けなくてはいけないわけです。いま、新型コロナウィルス蔓延という事態は、社会のあり方について、人間のあり方について、一人一人に主体的に考えるよう問うているように思います。」と書いている。『美しい人』は、それができない人々による悲喜劇を描いたものだったことが、よくわかる。

劇団とっても便利 25周年記念ミュージカル『美しい人』
作曲・脚本・演出:大野裕之
編曲:古後公隆
振付:杉山味穂
出演:たかね吹々己(特別出演)/ 鷲尾直彦、中島ボイル、上野宝子、多井一晃、高畠伶奈、杉山味穂、出田英人、佐藤都輝子、大野裕之 / 鈴木洋平、福田恵、さぶりな、池川タカキヨ、もりようへい、RINO、安東利香、金山雪乃、伊藤卯咲、KYOTA / 鈴木里奈、西野美香、嶽肩美希、高橋あみか、中西雛子、Usapyon、鈴木湖雪、輪手朋子、吉本みか子、平勝斗、白坂美梨、降木要、和柯、藤本紗綾、長谷川めぐの、岩崎歩菜、中川恵里、秋吉菜々実、デツ禎稀、松村桃花、玉井優樹、花川裕香、吉岡莉来、平田大祐、野添悟史
日時:2020年4月10日~12日
会場:京都府立文化芸術会館

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(C)劇団とっても便利2020
撮影:溝口理香

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大野裕之『チャップリンとヒトラー
メディアとイメージの世界大戦』2015、岩波書店 ISBN9784000238861

 さて、この緊急事態宣言を前後する日々、何をしていたかというと、大学のリモート授業(遠隔授業)の準備に、忙殺されていたのだ。ここはその詳細を書く場所ではないと思うが、事情は舞台芸術と変わらない。教室、大学という一か所に大人数が集まることは禁じられ、卒業公演は中止となり、卒業式もなくなり、入学式もなくなり、授業開始は見合わせられ、あれよあれよという間にZoom等によるリアルタイムの授業か、動画やデータをLMS(ラーニング・マネジメント・システム)上に置いて自習するというオンデマンド授業か、というような(他にも何かあったかもしれないが)選択が迫られた。
 劇場や教室に集まってはならない、受講者同士、出演者同士の接触は避けよ、ウェブ環境の整備は各自行え(のちに、多くの大学で5万円程度の援助が学生に行われた)、公演がなくなったことへの補償は税金で行うにはなじまないと思うと首相が発言(のちにいくつかの補償制度が発表された)と、大学も大学生も、舞台芸術も、医療む福祉も、もちろんほかの社会・経済活動の多くも、素手で首を絞められていくような日々だった。
 ぼくはそれまで名前も聞いたことがあったかどうだか、Zoomというウェブ会議サービスを使って、リアルタイムのライブ授業を行うこととし、週3大学各1コマの授業で、3つのLMS(Moodle、dotCampus、Google Classroom)を使うということになった。
 パソコン操作は特に苦手ではなかったとはいえ、大変だった。この時期、これらの対応、教材作成に、まさに忙殺されたことで、舞台芸術、ダンスがこの事態にどう対応できるか/すべきかを考えたり発言したり、またそのことについてどこかにどうにか働きかけたり呼びかけたりというようなことが一切できなかった/しなかったことは、非常によくなかったことだ。おそらくこの時期は多くの大学関係者が授業準備以外に何もできないという状況だったのではないだろうか。

 そんな中で、5月の連休明けに授業が始まり、劇団年一の『肌の記録』という、YouTubeで公開されたZoom演劇を学生に紹介した。テレビや映画で活躍している若手俳優たちがこんなことをやっているということ自体に、驚きがあったようだ。リモート稽古を約2週間重ね、すべてリモートで約60分、一発撮りだそうだ。特に課題として出したわけではないが、数名からリアクションがあった。
 面白かった。皆が最後まで視聴したのかどうかはわからないが、公開後一日で75,000件のアクセスがあったそうだ。約100年後の近未来を舞台にしている。現下の状況は続いていて、あるいは悪化していて、人々は直接会うということなど考えられない世界で暮らしている。4人は幼馴染で30歳だが、まだ会ったことがない、ということが最初に示される。6歳の子ども時代(小さな人形を使って演技)から、年齢のフリップを出しながら徐々に成長し、現在に至り、一人が見合いの後に女の子に実際に会いに行くことになる。これに誘発されたか、他の一人が、リアルに会ってみないかと提案するが、誰も乗らない。険悪な空気になったり、一人の冒険を他の者が息を詰めて注視したり、そこで拾った台本で演劇のようなことが始まったり、最後にはこれ自体が100年後の演劇でしたというふうに締められていくのだが、中でも、「でも、みんな画面だから、ほんとにいるのかな」という発言には、コロナ下でつかえていたものがズドンと落ちるような感覚があった。
 それは決してよい意味で落ちたのではない。Zoomで授業をやっていて、トラフィックを圧迫するといけないので、学生からの映像をオフにしてもらっていると、相手が見えないのにしゃべっているということになる。授業の終わりだけは挨拶したいのでと、オンにしてもらったことがある。顔が見えて、うれしかった。終わります、というとブチブチと切られていく。何も起きていなかったように。いたのかな。教室を出ていく後ろ姿を目の端に入れたり、そのままお弁当を広げるのに一声かけたり、ということがない。しゃべりながら、だんだん、いるのかな、という気分に恐ろしくなる。これがエスカレートすると、危ないなと思って、その考えに深入りするのをやめる。
 『肌の記録』は、ライブ配信ではないから、鑑賞している時点で、ネットワークの向こう側に彼らはいない。彼らはどこかで生きている。不謹慎だが、もしここに三浦春馬さんが加わっていて、亡くなった後も公開されていたら、という妄想。映画だったら、この世にいない出演者の姿を見るのは当たり前のことなのに、「映像のような演劇のような新しい作品」と銘打たれていたこの作品について、演劇だと思えば、そういう不思議な感覚になる。
 現実に目の前で実在の人間によって行われているのに、ましてここで写っているのは彼らの自宅かどこかごく現在的な日常空間なのに、これが未来で、60分の中で20数年の歳月が流れるということをだれも疑わない。映画なら通常そのために膨大なセットや効果を動員するが、それを必要としないところが、古来演劇の持っている、時空を飛び越える不思議な力なのだろう。
 繰り返すが、この作品は「映像のような演劇のような」と銘打っているが、映像の利点も演劇のよさも採用せずに作られた、ミニマルな作品だったといえるだろう。にもかかわらず、永続するコロナ下である遠い未来の恐ろしさと悲しさを、ユーモラスかつ魅力的に描き切ろうとした作品だったといえるだろう。

劇団年一『肌の記録』 
脚本・演出:加藤拓也 
出演:柄本時生、岡田将生、落合モトキ、賀来賢人 
2020年5月7日~21日
YouTubeで公開

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Send The Theater 劇場を届けよう。オムニバス公演「With」
無観客オンライン上演:2020年 6月20日・21日
新宿サンモールスタジオより、撮影・YouTubeLiveによる無料生配信
・JACROW「つながるような」
 作・演出:中村ノブアキ  出演:小平伸一郎、福田真夕
・TRASHMASTERS「灰色の彼方」
 作・演出:中津留章仁  出演:樋田洋平 、藤堂海
・アガリスクエンターテイメント「Masked」
 作・演出:冨坂友  出演:伊藤圭太、熊谷有芳、矢吹ジャンプ(ファルスシアター) (以上アガリスクエンターテイメント)、中田顕史郎
・チーズtheater「告白」
 作・演出:戸田彬弘 出演:大浦千佳、田谷野亮

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チーズtheater『告白』 撮影:伊藤星児

チーズtheater『告白』 大浦千佳
 撮影:伊藤星児

 もう一つウェブ配信公演として心にとどめておきたいのが、劇場空間で役者が演じる舞台を忠実にリアルタイムで配信したオムニバス公演『With』。劇団チーズtheater主宰の戸田彬弘が発起人となって発足したプロジェクトSend The Theater -劇場を届けよう-の第1回公演だ。オムニバスの4作品どれも面白かったのだが、特に戸田の『告白』についてふれておきたい。
 まず衝撃的だったのは、大浦千佳のほぼ独白というこの劇が始まって間もなく、「見えてますか?」と大浦がカメラに、いや、つまり、ぼくたちに尋ねることだ。『肌の記録』の「ほんとにいるのかな」が、出演者同士の会話として投げかけられ、なるほどと思わせられたのに対して、こちらの問いかけは、直接的に観る者に向けられていて、驚かされた。いわゆる第4の壁をカメラというものによって突き抜けて、双方向性と共場性・共時性をもぎ取ることができたのだから。
 それが必要な作品だった。大阪二児置き去り死事件などと呼ばれている育児放棄による子どもの餓死事件の犯人が、大浦の親戚だったという告白から始まり、大浦自身が、というのも今日は女優・大浦千佳ではなく個人の大浦千佳という立場で舞台に立っているという前置きがあったからだが、この事件の直前に犯人(いささか微妙な関係だった親戚の女の子)から呼び出されていたということが告白され、それ以後さまざまに思い悩み苦しんだことが述べられ、ついに大浦は女優をやめることを決意する、と言う。
 本当にやめるんだと思った。いや、演劇だけど。どうしようかと思った。大浦に連絡しようかと思った(学生時代、彼女はぼくの授業を受講してくれていたのだ)。思いとどまったけど。
 この作品が始まる前に回線の不具合があって、時間は少し押していた。そのことも、この作品の臨場感を高めていた。大浦が自然な大阪弁で演じていることも、生々しさを強めていた。恐ろしい作品だった。
 それでもなお、ぼくはこの芝居を、生で見たかった。もし、劇場で、ライブで見ていたら、大浦の演技だか何だかがぐぐっと膨れ上がって劇場空間に充満し、客席を波のように飲み込んでしまうことを体験できたはずだ。あ、今、ここで来る、と思った瞬間が、あった。しかし、パソコンの画面では、もどかしかった。
 時間は共にしていたのだ。場を共にすることとは、観劇体験にとってどれほどのことなのだろうか。作・演出の戸田は映画監督でもあるから、カメラ越しのリアリティは熟知していたはずだし、そのことについて何か難を見つけたわけではない。おそらく、場というものは、そこに居合わせるすべての人が共有するあらゆる感覚によってつくられているのだろう。いわゆる「じわ」だ。リモート演劇で、じわは来るのか。観客が予期しがたく共通の感覚に襲われたときに生成される顫えのような何かは。あっ、それがほしくて、劇場に通い詰めてきたのだと、改めて思った。

 このようなウェブ上で配信されるリモート演劇や、過去の公演の映像については、山本篤史氏が運営するOnline_Butaiというサイト(https://onlinebutai. sencale.com/)が、4月20日から日々情報を収集、更新している。まさにこの時代に必要とされ、実舞台を全世界に開く可能性のある、貴重なデータ集積の場である。「画面の向こうから伝わる、舞台の鼓動を感じたい」と謳って、演劇やダンスを享受する大きな障害であった距離の問題が、ここでは劇的に解決されようとしているように見える。 
 5月25日に緊急事態宣言が解除されたからと言って、すぐに現実の劇場での公演が再開できるわけではない。全国公立文化施設協会から「劇場、音楽堂等における新型コロナウイルス感染拡大予防ガイドライン」(5月14日作成、25日改訂)、各府県からも「業種ごとの感染拡大予防ガイドライン」が出され、座席を2m(最低でも1m)空け、定員を1/2以下にせよという目安が打ち出された。当初は、非現実的だ、採算がとれるわけがない、公共ホールなら可能かもしれないが民間施設では到底無理、という声が上がり、やはり当分公演再開は難しいかと思われたが、公共ホールだけでなく、大阪市生野区の表現者工房(6月19日~『チルスとマンス』)など民間施設でも、定められた条件の中で身を切りもがくような形で上演が始まった。

 

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 解除後、ぼくが初めて劇場に足を踏み入れたのは、6月27日、神戸アートビレッジセンターとしても解除後初めて開催された、「KAVC 新しい劇場のための work:01『いいむろなおき マイム小品集』」だった。定員232名の劇場を50名程度に制限し、当日パンフレットもウェブで取得するというように、考えうるすべての対策を講じての上演となった。一列に1~2名座るだけのスカスカの客席だが、うれしかった。この時期に、ソロで、声を発することのないマイムというのは、まさに好適なジャンルなんだなと苦笑しながら、久しぶりに目にしたいいむろのますます熟達し洗練された舞台に引き込まれたのだが、一方で、ほとんどのピースに死のイメージが影を落としていることに気づき、コロナ後の舞台再開にただ浮かれていたところに水をかけられたような、痛快な感覚に襲われた。
 彼のレパートリーから選択した6つの小品集とはいえ、ここまで死のイメージに固着したのは、やはり現在の状況によるものだろうか。声なく、一人で舞台に20年以上立ち続けた彼の年輪が実感できる舞台で、マイムの高い技術を持ったユーモラスな舞台、という先入観とは異なり、マイムとは孤独で、何かを奪われた表現であるということを突き付けられたような思いがしている。いいむろのマイムには、そしてそれを受け取るぼくたちには、そのような重さに取り巻かれていたように思う。
 実はこの日ぼくを感動させたことがもう一つあって、他の観客の拍手と自分の拍手が混じりあって、いいむろにエールを送ることができるという、当たり前だったことの貴さだ。劇場を体験することの喜びとは、これに違いないと思った。一人で観ているのではなく、何ごとかを誰かと共有できている感覚。時と空間だけではない何ごとか。
 高橋源一郎がコロナ後にどんな文学が書かれるのかを考える文章の中で、カミュの『ペスト』にふれながら、「危機が訪れたとき、暗闇の中に一瞬、浮かび上がる大切なもの」の存在をほのめかす(毎日新聞、8月5日、オピニオン文化芸術の変容)。いま、あのKAVCで聞いた拍手の音や感覚が、それだったのではないかと思い返す。高橋は続けて「だが、わたしたちは、そのあと、すべてを忘れてしまう。それを忘れぬために、作家たちは、書き残す」と書きつけている。この拍手の感覚は、書いておこうと思った。
 学生の頃、作品は作者と読者(観衆、聴衆等)の間の薄膜のようなものに成立しているのだと思っていて、仲間とひとしきり言い合いをした記憶がある。こういうのは言葉の遊びのようなものだが、今でもあまり変わっていない、表現者と享受者の間に起きる渦のような循環そのものが作品であって、実はそれは固体的なものではないと言い直してもいい。言い古されていることではあるだろうが、もちろんまず作品がなくてはその循環は起きないとはいえ、その作品をそうあらしめているのも、享受者と表現者が共有している空間や時間だと言ってもいいのではないか。劇場が閉じられたこの何か月か、そんな渦がなかなか起きにくい状況になってしまった。それに抗する形で、多くのリモート演劇や、ここではふれられなかったが、神楽坂セッションハウスオンライン劇場によるコンテンポラリーダンスの提供など、いくつもの試みが行われた。これらの試みが、これからの舞台芸術のあり方を根本的に変えつつあるのかもしれない。すべてを忘れてしまうことはないようにと、何もなかったようなふりだけはしたくないなと思っている。

KAVC 新しい劇場のための work:01『いいむろなおき マイム小品集』
日時:6月27日(土) 16:00〜、6月28日(日) 13:00〜/16:00〜
会場:神戸アートビレッジセンター[KAVC] KAVCホール

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■上念省三(じょうねん・しょうぞう)神戸市在住。基本的にはダンス評論。きっかけは、厚木凡人。

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撮影:神戸アートビレッジセンター

瀧尻浩士■不自由さを楽しむ――災禍から生まれた祭り~劇場の灯を消すな!シアターコクーン編  松尾スズキプレゼンツ アクリル演劇祭

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撮影:宮川舞子

 「新型コロナウイルスの感染拡大の影響により」、このフレーズが冒頭に来る言葉を、2020年初春以来、何度目にし、何度聞いたことだろう。それは「平家物語」の最初の一行さえ覚えていない私でも諳んじて言えるほどの、毎日繰り返される歴史的文句となった。そしてこの後に続くのは、オリンピックイヤーで日毎熱くなっているはずだった活気あふれる日常生活、ではなくて、自粛自粛を強いられた何もかもが下降線の日々である。たった20文字からなるこのフレーズが、人々の心を陰鬱にさせていった。それは演劇人、劇場にとっても例外ではなく、危機的状況下の演劇文化の必要性は、むしろ早い時期から議論の的となった。
 だがそこは歴史の中で様々な逆境に耐えるどころか、立ちはだかる壁に敢えて挑んできた演劇である。今また、世界が突然の不意打ちを食らった状況の中で、芝居を演る者も観る者も、嘆くことを止め、様々な形をもって歩き出そうとしている。出口はまだ見えない。手探りの道半ば。だが演劇は立ち止まってはいない。
 演劇の若き世代は、共に育ったインターネットを味方に、いち早く歩き出した。たとえ劇場という場がなくても、仲間が集えなくても、観客が目の前に座っていなくても、デキルことを示してみせた。一方、演劇熟年世代だって、ただ座って災禍が通り過ぎるのを待っていたわけではない。コロナ禍時代の主流となったネット配信、zoom演劇などを横目で見ながらも、勝手知ったる既存の枠組みをちょいとひねって、演劇がもつ新しい可能性をノン・バーチャルで身をもって示して見せた。それが『劇場の灯を消すな!Bunkamuraシアターコクーン編 松尾スズキプレゼンツ アクリル演劇祭』である。
 これはWOWOWとシアターコクーンとのコラボレーションによる演劇プロジェクトとして、無観客の劇場で行われた各種パフォーマンスを、ネット配信ではなく、テレビで放送することを前提としたオリジナル企画作品である。総合演出は、シアターコクーンの芸術監督を務める、熟年演劇人松尾スズキ。ネットを使わず、既存のメディアであるテレビと協働して、無観客ながらこの時期果敢にも舞台上演を試みた。あるひとつの工夫を用いて。
 出演者は皆、「マツノボクス」と名付けられたアクリル製のボックスの中でパフォーマンスをする。身体の動きをできるだけ損なわず、かつ演技領域を確保するために、ソーシャルディスタンス、アクリル板、あるいはフェイスシールド、といったある意味この時期の流行語ともいえる用語用具で上演を可能にする手を使うと思いきや、松尾は、前面と左右をアクリル板で囲った「コ」の字型の電話ボックスサイズの空間をひとりひとりのパフォーマーに与えた。できるだけコロナ前に近いスタイルで舞台空間を活用するためなら、先にあげたような他の手段を使えば、演者はもっと広い範囲で動けるだろうに。アクリルボックスは、公衆電話をかけるくらいの動きしかできないほどの狭い空間を作り上げ、その中にパフォーマーを閉じ込めた。彼らの身体稼働領域はそれにより極度に制限される。ところがボックスに囲われた演者たちは、みな窮屈そうにしているどころか、何か新しいゲームに参加しているかのように、彼らの身体的自由を束縛するその透明の仕掛けを積極的に楽しんでいるのが、その表情からもはっきり見て取れる。俳優というものは、抑圧され、不自由さを強いられれば強いられるほど、役者としての内なるエネルギーが湧いてくるものなのか。そう思わざるをえない光景が舞台上にあった。

劇場の灯を消すな! シアターコクーン編 松尾スズキプレゼンツ アクリル演劇祭
7月5日(日)夜9:00 [WOWOWライブ] [WOWOWメンバーズオンデマンド]

<出演者>
■総合演出:松尾スズキ
 脚本・演出協力:天久聖一
■出演者(50音順表記):
秋山菜津子、麻生久美子、阿部サダヲ、荒川良々、生田絵梨花、池津祥子、伊勢志摩、大竹しのぶ、神木隆之介、小池徹平、多部未華子、中井美穂、中村勘九郎、根本宗子、松尾スズキ、松たか子、皆川猿時、村杉蝉之介
■演奏:門司肇(ピアノ)、清水直人(サックス)、Dr.kyOn(ピアノ)、長尾珠代(バイオリン)、横田明紀男(ギター)
■ダンス&コーラス(50音順表記):香月彩里、齋藤桐人、笹岡征矢、中根百合香
■殺陣:六本木康弘、今井靖彦、坂本和基

■収録場所:Bunkamuraシアターコクーン

◆番組公式サイト:https://www.wowow.co.jp/gekijyo/
◆WOWOWステージ公式ツイッター:@wowow_stage

WOWOWメンバーズオンデマンドで配信中。

https://mod.wowow.co.jp/

WOWOWにて12月再放送予定。https://www.wowow.co.jp/detail/171035

■瀧尻浩士(たきじり・ひろし)演劇研究。明治大学文学部卒業、オハイオ大学大学院修士課程(国際学)、大阪大学大学院修士課程(演劇学)修了。大阪大学大学院文学研究科在籍。上方落語、文楽、宝塚と関西発祥の芸能をこよなく愛する。

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撮影:宮川舞子

 舞台上の「番組」は演劇祭の名にふさわしく、歌、ダンス、コント、芝居、朗読、映像と種々のパフォーマンスで構成されている。不連続で混沌とした雑多な出来事の集まりは、まるで劇場の外にあった本来の日常を映しているようだ。その祭りのプログラムは、松尾スズキがミュージカル俳優よろしく軽やかに踊りながら、シアターコクーンの入り口から場内へと案内するビデオで始まる。そして舞台はふたりのMCによって進行される。最初にまず過去にシアターコクーンで上演されたミュージカル『キレイ』から何曲か、それを演じた役者たちが歌う。ひとりひとりがアクリルボックスの中で歌い、表現し、自分の役柄を再現する。演者たちには上演当時のような役どうしの身体的交流は許されないが、松尾の言葉を借りれば「自分の息、今臭いんじゃないかなとか、相手の俳優に気を使って台詞をトチルみたいなこと」を気にしないでいい、気楽な距離と心地よい断絶がそこにある。こうして俳優たちの意識は、通常の上演と違い、ボックスの中の自分自身にのみ向けられ、過去の自分の役とのいくらかの時間を経ての再会を噛みしめて楽しんでいる。次の演目との間には、麻生久美子によるコント風の舞台裏案内のビデオが挟まる(松尾スズキはちゃんと芸術監督として劇場PRも忘れていない)。続いて、「アクリル剣劇『THE灯市』」。「かつてこれほど『安全な剣劇』があったでしょうか」とMCの中井美穂が問いかける座頭市のパロディ劇で、荒川良々ら4人の男たちが刀を十分に振り回せない個別空間でチャンバラの成立を試みる。こうした問いかけはさらに続く。「アクリルの中で人はどこまで踊ることができるのでしょうか?」通常、物理的空間制限を前提としない剣劇やダンスが、制約を受けた中で何をどう見せるのか。「アクリルダンス」のボックスの中で生き生きと踊るダンサーたちは、まるでコップの中の小宇宙を駆け回るオズのマンチキン。今にもボックスを飛び出しそうなエネルギーを感じさせる。書き下ろし「アクリル演劇『ゾンビVSマクベス夫人』」は、新型ウイルスでゾンビ化した女優の妻と作演出の夫との、まさに「今」を重ねたシニカルな愛の物語だ。さらに松尾スズキと根本宗子の対談を挟んで、大竹しのぶと中村勘九郎による、井上ひさし作品『泥と雪』(『十二人の手紙』より)の朗読へと移る。朗読劇なので、ふたりがある程度ソーシャルディスタンスをとってやれば問題ないと思われるが、やはりふたりともそれぞれ「マツノボクス」の中で静かに朗読する。大竹と勘九郎、ふたりの朗読者の距離を更に引き離すようにアクリルの壁がふたりの間を断絶する。だがそれゆえに、朗読者によって語られる手紙による愛の言葉は一層強く、遮るものを突き通し距離を超えて、アクリル越しに流れる男女の心の交換エネルギーとなって、ふたつのボックス間を行き来する。遮断された空間のもどかしさの内側で、手紙にしたためた気持ちと向き合う男と女の息遣いを、大竹しのぶと中村勘九郎が再現し増幅させていく。
 舞台を見る前なら、こうしたアクリルボックスというアイディアは、舞台に息苦しい閉塞感をもたらし、そこにコロナ禍の苦しみを表象しようとしている、などというようなネガティブな想像をしたに違いない。ところが実際の舞台では、「アクリル演劇祭」の名の通り、区切られたその狭い空間を出演者の誰もが楽しんでいた。客席にひとり座る観客代表の松尾スズキは、自分が考案したこのアクリルボックスを「意外とこれ見てて、おもしろいし、美しい」と他人事のように(もちろん良い意味で)客席から舞台を楽しんでいる。MCの皆川猿時は、「小劇団の役者なんかね、元々三密からわいたバイキンみたいなもんですから」とSNSなら炎上間違い無しのアドリブ風の台詞を吐く。こうした毒を楽しむ余裕、ネガティブな状況をポジティブに楽しむ余裕を、劇場の外に広がる閉塞的状況下の現実に生きる我々は、心地よく見せつけられるのだ。舞台上に、確かに「希望」が見えた。
 「新型コロナウイルスの感染拡大の影響により」、に続く松尾スズキの言葉はきっとこうだろう。「こんな楽しい舞台を作っちゃいましたよ!」と。そんなポジティブな時間と空間を、彼とその仲間はこの新しい演劇祭の形式の中で創り出した。毒を孕んだ笑いを武器にしている小劇場的視線が、毒を以て毒を制すが如く、休眠中の大劇場を、手かせ足かせの空間から自由な遊び場へと変えていった。それは制約があればあるほどゲームに熱狂し、狭い押し入れの中にさえ宇宙空間を作ることができる子どものクリエイティビティが為せる技に等しい。ネットと懇ろではない熟年昭和演劇人もなかなかやるものなのだ。
 自粛中でほとんど練習時間もない舞台人が集まって、「これこそ『プロの付け焼き刃』の力」だと自虐的に笑いながら、演劇という祭りを楽しんでいる。そんな彼らに、劇場収容人数の何十倍の観客が、モニター越しに笑いと拍手を送っていることだろう。
 不自由さを楽しむ「アクリル演劇祭」、この馬鹿馬鹿しいまでの、ポジティブさが今の深刻な状況を乗り越えるためのひとつの鍵となるかもしれない。コロナよ、演劇の底ヂカラを侮るな!

藤城孝輔■無邪気さとプロパガンダ――こまつ座『きらめく星座』

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こまつ座第131回記念公演 『きらめく星座』

写真は、2020年3月10日(火)~15日(日)紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA 公演より

左より、松岡依都美、村岡哲至、久保酎吉、髙倉直人、大鷹明良、木村靖司 撮影:宮川舞子

 ウディ・アレンの新作映画『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』(2019年)が岡山でも2020年7月から公開された。アレンの1992年の性的虐待疑惑の再燃のため、2018年に完成しながらも米国内では製作会社のアマゾンがお蔵入りにした作品である。国外での劇場公開も遅れていつ観られるかと心配にもなったが、各国の配給会社によってヨーロッパやアジアで上映される運びとなった。作品の内容に関係なく、このように作者や出演者の私生活上のスキャンダルが作品の受容に影響する例は洋の東西を問わずたびたび見られる。私は中学生の頃からウディ・アレンの映画のファンなのだが、英語圏に留学中にそのことを告白して「あのアレンの映画でしょ?」と言わんばかりに露骨に眉をひそめられたことは一度ならずある。

 そんな中で井上ひさしは稀有な例外なのかもしれない。最初の妻、好子に対する彼の家庭内暴力は疑惑どころか出版社の人間にも黙認された事実であった。1986年にマスコミを騒がせた離婚劇以来、家族による回想録や暴露本によって世間にも知られるところとなった。にもかかわらず、井上ひさしと聞いて人がまず思い浮かべるのはユーモアとヒューマニズムに根ざした作風であり、九条の会などにおける平和主義運動であり、『ひょっこりひょうたん島』(1964-69年)であろう。井上作品を上演する劇団、こまつ座の公演は全国の演劇鑑賞団体を中心に今でも人気を集めている。(1)以上は出版社が人気作家の井上をバッシングから守ってきた努力の成果に他ならない。それでも、井上の劇が命の大切さや戦争反対といった素朴で普遍的な教訓を説けば説くほど、私は倫理的わだかまりのようなものを自分の中に感じてしまう。「作家と作品は別物」という決まり文句をうそぶいて作家の私生活を見ないふりを決め込めるほど私はクールじゃないし、某大手演劇雑誌が数年前に組んだ特集のように「芸術家の狂気と天才」という別のステレオタイプに押し込めて神話化するのも釈然としない。

 『きらめく星座』は2020年7月に演劇鑑賞団体「岡山市民劇場」の例会として上演されたものを観た。4月から新型コロナウイルスの影響で舞台の公演中止が続いていたが、岡山県内では緊急事態宣言の発令以降、初めて上演が再開された作品として地元の新聞等で取り上げられた。当初の6日間の予定から上演日が1日削られ、劇場内でのマスク着用や観客同士の間隔確保など感染対策が義務づけられたが、初日には340人が観劇した。(2)『きらめく星座』は井上作品の中でも人気作の一つで、1985年の初演以来今回が9回目の公演である。岡山市民劇場が本作を迎えるのも3度目となった。演劇鑑賞団体に入ると会員数を増やすために各自が勧誘に取り組む必要があり、舞台鑑賞自体が敬遠されるこの時期には特に大変である。団体の運営や上演劇団の収益にも大きな打撃を与えていることは間違いないものの、一観客としては市松模様に席を空けて座ったことで普段よりも贅沢な気分で鑑賞できたというのが本音である。

 本作は太平洋戦争勃発前、1940年の秋から1941年の真珠湾攻撃の前夜までを舞台としている。浅草のレコード店「オデオン堂」で暮らす音楽好きの一家と下宿人たちが世相の変化や生活物資の枯渇を経験し、最後には店を畳んで散り散りになるまでが当時の流行歌の数々とともに描かれる。劇中で歌われる「月光値千金」(“Get Out and Get under the Moon”)や「青空」(“My Blue Heaven”)はこの時代には嫌われる洋楽の翻訳曲であるが、「バタくさからうが、チーズくさからうがはたまたコーヒーくさからうがいい歌はいい」というのがオデオン堂の信条である。(3)特に一家の後妻ふじを演じる松岡依都美が終盤、入営直前の若者に歌って聞かせる「青空」は豊かな声量を活かしたソロで聞きごたえがあった。

 だが「いい歌はいい」という曲の文化的な背景に目をつぶった素朴な価値基準に従うならば、バタ臭い音楽を歌い続ける一家を非難する娘婿の源次郎が愛する軍国歌謡さえも「いい歌」として認めなければならないだろう。ふじと義娘のみさをがバケツ体操を披露しながら歌う「愛国の花」、源次郎が戦地を思い出して勇ましく歌う「愛馬進軍歌」といった軍歌も流行歌に負けない魅力で観客を惹きつける。夢中になって歌を歌う時、銃後の庶民であるオデオン堂の家族も、傷痍軍人の源次郎も、軍を脱走した一家の長男を追う憲兵さえも無邪気な姿を見せる。こうした登場人物の無邪気さは軍国主義の時代において危うさにもなり得るように見える。

 とりわけ、最初はゴリゴリの軍国主義者として登場するも、次第に帝国主義の道義を疑うようになる源次郎において無邪気さが持つ危うさが表れているように見える。源次郎は戦地で蝶をつかまえようと塹壕から体を乗り出したところで銃撃により右手を失くしたと説明される。源次郎役の粟野史浩は蝶をめぐるエピソードを帝国主義に洗脳された彼が本来持っていた優しさの描写であると解釈している。(4)しかし、これは明らかに第一次世界大戦を描いた反戦映画『西部戦線異状なし』(ルイス・マイルストン監督、1930年)のラストシーンからの引用である。愛国心を説く教授の言葉に感銘を受けて軍に志願し、塹壕から一羽の蝶に手を伸ばして銃殺される素直なドイツ人学生と重ねることで、井上は源次郎の無垢な気質を表現している。源次郎は無垢であるからこそ軍人勅諭や戦陣訓の言葉を鵜呑みにし、「まじめで一途な性格の人ほどかかりやすい」とみさをが説明する幻肢痛に苦しめられ、軍需景気にほくそ笑む軍の高官と工場主の言葉に義憤を覚える。このように源次郎は作中を通して思想的には180度の転換を見せるものの、彼の幻肢痛は治るどころか社会に対して憤りを覚えるたびに痛みを感じるようになって再入院せざるを得なくなる。彼が無邪気さから解放されることは最後までない。

 

2020年7月10日(金)~7月14日(火)
会場:岡山市民会館
http://www.komatsuza.co.jp/program/past/2020/index.html#more335

(1) 西舘好子は回想録の中で、共産主義を支持した前夫と労働者演劇鑑賞会を前身として戦後全国に広まった演劇鑑賞団体の思想的な親和性を指摘している。『修羅の棲む家』はまの出版、1998年。237-238頁。

(2) 菅野みゆき「『市民劇場』工夫こらし再開」『朝日新聞』総合版(岡山)、2020年7月12日。

(3) 台詞の引用は藤木宏幸/源五郎/今村忠純編『「戦争と平和」戯曲全集』15巻(日本図書センター、1998年)に拠る。井上のこの戯曲では一貫して旧仮名遣いが用いられている。

(4) 粟野史浩「真面目ゆえに滑稽に 裏には洗脳の怖さも」『the座』103号(2020年)、10頁。

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左より、瀬戸さおり、粟野史浩、松岡依都美、久保酎吉、高橋光臣、後藤浩明、大鷹明良 撮影:宮川舞子

 一方、無邪気な作中人物たちの中で世間をシニカルに見ている唯一の人物が広告文案家の竹田である。味の素や歯磨き粉の広告のキャッチコピーを作る彼は「ゼイタクは、敵だ」といったスローガンもまた広告文案の一種に過ぎないことを知っている。国威を発揚する軍歌の言葉や戦時体制下のプロパガンダを素直に受け入れる源次郎とは対照的に、竹田は言葉の力に対して意識的である。ステージ上でも竹田を演じる小柄で痩せ型の大鷹明良と180センチに届く大柄の粟野史浩は明確なコントラストを成しており、弁の立つ竹田が源次郎を言い負かすシーンは痛快である。井上自身は竹田を本作の「隠れた主人公」として位置づけ、「言葉を扱う発信者側の責任、発信された言葉をどう受け止めるかという受信者側の責任」という課題を本作を通して伝えようとしたと述べている。(5)登場人物の対比は、戦争に巻き込まれていく運命に抗うことのできなかった市井の人々の責任を浮き彫りにする手段であると言える。

 言葉の発信と受信の問題は戦争の時代に限られたものではない。今日も、人は毎日マスメディアの言葉に一喜一憂し、あるいはSNSで飽くなき議論を戦わせ、あるいは聞かないふりを決め込む。井上ひさしやウディ・アレンといった有名人のスキャンダルもメディアと我々の格好の餌である。その餌を食べるにせよ吐き捨てるにせよ、受け手にはその餌が持つ意味を自分で考える責任があるのだろう。もちろんDV男なんかにそんな責任を語ってもらいたくないと反発したくなる気持ちもなくはないが。

(5) 井上ひさし「発信と受信」『the座』103号、20頁。

■藤城孝輔(ふじき・こうすけ)岡山理科大学教育講師/映画研究・映像翻訳

2020.12.3

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