あごうさとし『無人劇』に関するZoomミーティング報告/上念省三
コンセプト・演出 あごうさとし
日時:4月29日14:00
公演にあたって -note-
作品のコンセプトの都合上、どなた様もご来場なされませぬようお願い申し上げます。開演時間になりましたら、その時間にお客様のおられる場所で、一度、大きく呼吸をいただきますことをお願いいたします。入場料収入は、THEATRE E9 KYOTOの運営費として活用させて頂きます。
主催|THEATRE E9 KYOTO(一般社団法人アーツシード京都)
4月29日14時、Theatre E9 KYOTOであごうさとしによる『無人劇 unmanned play』が開催されたのを機に、その日の終了後、Zoomミーティングによる意見交換会を開催した。上念の手違いで、数人の学生とはスタートしたものの、待機中の会員メンバーに気づかず、開始が1時間以上遅れたが、緊急事態宣言後の数少ない「演劇体験」として、記録にとどめておきたい。
この「公演」は、「出演者もスタッフも受付も、そして観客もいない劇」で、「開演時間になりましたら、その時間にお客様のおられる場所で、一度、大きく呼吸をいただきますことをお願いいたします」ということだけが参加の要件だった。チケットは一般3000円、学生1000円。
4月7日に東京都、大阪府、兵庫県など7都府県に緊急事態宣言が発出されたことを受け、京都市は4月10日に国に緊急事態宣言の発出を要請、4月16日に同宣言は全国に拡大された。この「公演」の開催は、4月9日の同劇場の2020年度ラインナップ発表時にリリースされており、4月14日の京都新聞に「一風変わったクラウドファンディング」(以下、CF)として紹介され、翌日にCFではなく演劇公演に対する料金であるという訂正記事が出ている。おそらく記者は当初この報を受けてCFの一種と認識し、そのまま記事にしたところ、劇場側からの要請で、訂正記事を出したのだろう。
あごうが「無人劇」を開催するのは、初めてではない。2017年7月にアトリエ劇研の閉館に当たり、アトリエ劇研の立て看板を舞台に上げ、場所と照明だけで「公演」を作ったことが記憶に新しく、2013年『パサージュⅢ』、2015年『バベルの塔Ⅱ』に続く企てだったという。
それらがクリエイターとしての鋭くコンセプチュアルな試みだったのに対し、今回のunmanned playが社会的状況に基づくものでもあったことは、主にこれを享受する側にとって、様々な影響を与えることになったと思う。
まず、劇場に行けない状況、劇場が空いていない状況の下、この「公演」が行われたということだ。Zoomミーティングで九鬼葉子さんがおっしゃったことを、簡単に整理しておこう。これは典型的な不条理演劇であり、つまり何も起きないということが徹底されている。劇場が存在するにもかかわらず何も起きないということ、それは一回限りしか有効ではないのではないか。そして今日は、さあ芝居を見ようという感覚を取り戻すことができた。
劇場が閉じられていた状況と言えば、阪神・淡路大震災後が思い出されるが、震災当時は芝居を観る気になれなかった、演劇に何の力があるのだろうと思って、むしろ演劇に反発するぐらいの精神状態だったのだが、今はやっと芝居を見る感覚が戻ってきたということをよかったと思っている、と。
震災にあっては、自粛ムードでの公演中止もないわけではなかったが、特に神戸・阪神間では、建物自体の損傷で公演ができないという、明らかな支障があったのに対し、コロナ下にあっては、根拠にどこまで正当性があるのかしっかりとした検証ができないまま事実上の禁止令が出され、それに従わざるを得ない状況となることによって、公演が行われないことになるという、まさに不条理な状況の中で、14時ちょうどにため息をつく(呼吸をせよと言われていたが、多くの人にはため息になったのではないか)だけのことという、一種の不条理劇が、不条理な状況の中で行われたということになった、という構図である。
両者は果たして相乗効果を与えただろうか。ぼくにはむしろ、そこには斥力が働き、互いを遠ざけ合ってしまったように思える。このような形で無人劇を行うことが、この状況に対して、どのような楔であったのだろうか。
Zoomミーティングでも話したが、今回のサブタイトルに用いられているunmannedという単語の肯定形mannedは、「有人の」とか「人を乗せた」という意味、そもそもmanには動詞として「人を配置する」という意味があるらしい。全く英語に明るくないので、manという動詞があることに驚いた。Unman:人が配置されていない、不在であるということから、劇場の存在が前面に押し出され、その劇場そのものが不在である現在が強調されるというコンセプトであったのだろう。そのような不在としての劇場、欠如としての身体、脳内でのみ想像力によって半ば強引に形成された劇性は、14時ちょうどのため息によって、一瞬にして通過していった。ため息は、舞台芸術の不要不急性に対して、何らかの楔になれたのだろうか。
ぼくは3000円のチケットを買った。買うという形でアンガジェしないと、体験できないかと思ったからだ。もちろん、3000円分(かどうか)考えた。買ってなかったら、それほど考えられただろうか。……きっと考えられただろう。予測可能な範囲をはるかに超える何ごとかが、「大きく呼吸」をすることで現出することは、少なくともぼくの想像力によっては、なかった。これは演劇だろうか、上演だろうか。見る-見られるという関係は、成立していたといえるのだろうか。俳優はそもそも不在だ。作者と観客がダイレクトに脳をつなぎ、事態を共有しているような状況。……何か共有できていたのだろうか。133枚売れたというが。チケットを購入していない人も含めて、数百人の呼吸によって、何が現出したのだろうか。
京都新聞の記者氏のように、CF、詰まるところ寄付集めかなということは、少しよぎった。岡田蕗子さんは、うっかり購入せずに今日を迎えてしまって、振り込みの手続きがどうたらこうたらとしているうちに、そのままになってしまったそうだ。でも、これがただのCFなら、協力した(かもしれない)、とも。そういう、ためらわせてしまうようなわかりにくさはあった。そして、観客にあまりに多くのことを求めているようであることへの、なんというか、ためらいというか、反撥もあった、と。……そう、あらかじめ、少し後味が悪かったのだ。……その後味の悪さも、あごうが仕組んだものだと思ってみたら、どうだろう。
多くの劇場は、この数か月、無人に近い状態だったはずだ。そもそも劇場は、観客と出演者とスタッフと、建物と、それから何によってできているものだったのだろうか。いくつものメタな問いが投げかけられた。舞台芸術の存立点を揺らし、鑑賞者の立ち位置を揺さぶり、チケットを購入するということの意味、3000円の意味を問う「行為」だったことは確かだろう。
じょうねん・しょうぞう 関西支部事務局長。Act編集担当。いくつかの大学の非常勤講師
【編集後記】
COVID-19感染リスクが強いるオンラインによる鑑賞が、いまや代替措置というより当然の選択肢として定着しつつある2020年12月現在。ライブ性、集合性の損なわれた画面の中のそれは、「舞台芸術」と呼ばれ続けるのか、むしろ劇場制度の枠を解かれ、より「演劇」や「ダンス」たろうとする新しい何かだろうか。(竹田真理)
今回も予定を大幅に遅れ、師走に入ってしまったことを、お詫び申し上げます。皆様のご協力もいただき、この一年で辛うじて3号発行することができました。今号は特に、リアルな劇場での鑑賞ではない対象を捉えた記事が多かったことが、記録に値することになったと思われます。この鑑賞方法はおそらく、今後も選択肢の一つとして残るでしょう。脚本、演出、演技、振付に加えて、撮影、編集といった事柄も批評の対象となっていくのか、興味深く見ていきたいと思います。次号もまたこの状況が続きそうですが、どのような記事が集まるでしょうか、楽しみです。(上念省三)
2020.12.3